外国語を、せいいっぱい聴き、伝える。- 中浜万次郎たちの「英語」。 / by Jun Nakajima


日本の外(海外)で暮らしていると、ときおり、昔の日本人たちがどのように異国にわたり、そこで生きていたのかに関心が湧くことがある。あるいは、そのような「物語」に出くわすと、深い好奇心に火が灯るのを感じる。

2019年、ぼくは思想家の鶴見俊輔(1922-2015)のいくつかの著作を読もうと思って、鶴見俊輔『旅と移動』黒川創編(河出文庫)のページをひらく。「旅と移動」というタイトルにあるように、そこには海外にかんすることが書かれていたりする。

鶴見俊輔自身の経験をつづった「わたしが外人だったころ」という文章もあれば、たとえば、「中浜万次郎」が描かれていたりする。

この、中浜万次郎(ジョン・マン、ジョン万次郎)を描いた文章「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」は、鶴見俊輔による<成長的な見方>(ある人が生き、失敗し、その体験をもとに成長していく、その過程を思想としてつかむこと)によって、この人物の「思想」にせまってゆく。心が揺さぶられる文章である。

19世紀半ば、万次郎(14歳)は土佐出身の他の四名(漁師たち。筆之丞など)と共に離島に漂流し、そこで143日を生きのび、アメリカの捕鯨船(ハラウンド号)に救出される。日本は鎖国の時代である。

この救出の場面、万次郎たちにも、捕鯨船の船員たちにも、「相手を同じ人間と見る心があったのがしあわせだった」と、鶴見俊輔は書いている。「相手を同じ人間と見る心」が、人間にとって、「あたりまえ」のことではないからだ。とりわけ、当時の状況や無人島生活の心理のなかにあってである。

ともあれ、この「しあわせ」によって出会うことができ、万次郎たちは救出され、捕鯨船での旅に加わってゆく。

「言葉」は、どうしたのだろうかと思わずにはいられない。万次郎たちにとってははじめての「外国人」との出会いであり、捕鯨船の船員たちも、万次郎たちがどこから来たのか、最初のうちはわからない。

万次郎たちは救出されてのち、少しずつ事情をつかみ、船が捕鯨船であることを知り、「マサツーツ」という国の船で、船頭の名が「ウリヨン・フィチセル」ということを知ることができた。

ここでいう「マサツーツ」はアメリカのマサチューセッツ州、「ウリヨン・フィチセル」はウィリアム・ホイットフィールドである。

自身、アメリカにも滞在していたことのある鶴見俊輔は、つづけて、つぎのように書く。

…日本語しか知らない耳で英語の発音をきくと、このように聞きとれた。この発音は…英語が義務教育の一部として教えられている今日の日本から見ると、変にきこえるが、こんな発音でもともかくも、万次郎たち五人は日本人全体に先んじて英語をききわけたり話したりすることができるようになり、その後の数年間、日常生活をこの流儀でおしとおしたのだ。

鶴見俊輔「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」、『旅と移動』黒川創編(河出文庫)所収

この「流儀」については、筆之丞たちが日本に帰ってから日本人に教えた英単語を見てみると、さらに理解できるように思われる。

こんな具合である。

地  ガラヲン
木  ウーリ
火  サヤ
水  ワタ
暑  ハアン
寒  コヲル
春  シブレン

鶴見俊輔は「もとのつづり」を推定して書いてみている。

地  ガラヲン  ground
木  ウーリ     tree
火  サヤ        fire
水  ワタ        water
暑  ハアン     hot
寒  コヲル     cold
春  シブレン   spring

これらを見やりながら、「こういう発音でも、必要に応じてせいいっぱい使えば、アメリカの暮らしに不自由はなかったということが、わかる」と、鶴見俊輔は書いている。

ぼくの経験からも、「必要に応じてせいいっぱい使えば」という流儀が、よくわかるような気がする。また、下手に「カタカナ」で発音するよりも、「ききわけたままに」発音してみたほうが伝わることがあるものだ。筆之丞たちの単語表のカタカナ表記を見ていると、そんなことも思ったりするのだ。

でも、「必要に応じてせいいっぱい使う」機会がなかったり(自らなくしてしまったり)、そんな機会を逃してしまったりしてしまうのも、今の時代かもしれない。他の方法が「便利」にも、見つかるからである。ぼくも「便利さ」にながれてしまったりする。

それでも、ぼくのなかにも、「せいいっぱい」聴き、「せいいっぱい」伝えるという経験が、生きている。そんな経験をしているとき、言葉が「言葉」になっていなかったかもしれないと思う。でも、それはある意味、言葉でありながら、「言葉」を超えてゆくときでもあった、と、ぼくは思う。