「受け売り」の効用。- 思想家・武道家の内田樹の「話し方」。 / by Jun Nakajima

「自分の意見」を持て、などと言われる。でも、かんがえてみれば、「自分の」意見って、特定がむずかしい。「むずかしい」という言い方も正確ではないとさえ思える。「自分の意見」、さらには「自分」をつきつめてゆくと、そこにはさまざまな「他者」が現れるからだ。

「良心の声は両親の声」と言われるように、自分が「良心」とかんがえていることは、親から言われつづけて(また親子のコミュニケーションのダイナミズムを通じて)、「自分の声」となるほどまでに内面化されたことであったりする。


思想家・武道家の内田樹と施術の池上六郎は、そのことを承知のうえで対話をしている(『身体の言い分』毎日新聞文庫、2019年)。

内田樹は、自身を「受け売り業者」みたいなものだとみなしている。「受け売り」ということばは、日常では否定的なニュアンスで語られるけれども、「受け売り」で話す仕方を、方法論として深めている。


内田 …自分の意見はもうとっくに聴き飽きてるし。受け売りはね、同じ話を何度しても飽きないんです。受け売りで何度も繰り返す話って、ちょっと変な味わいの話が多いんですよ。何かね、どこか噛み砕きにくいところが残っているんです。だから同じ話を二度話すと、「ああ、この話はこういうことだったのか」と腑に落ちるということがあるわけです。三度目に話すと、また「ああ、そういうことだったのか」と。他人の話というのは味わい深いですよ。

内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)


「自分の意見はもうとっくに聴き飽きてる」というように、内田樹が「受け売り」を方法論とするうえで、「自分の意見」は考えつくされ、また、話つくされていることは確かだ。「自分の意見」がないままに、ただ「受け売り」を繰り返しているのではない。

そのことをおさえたうえで、内田樹がつづけて語ることばに耳をすませてみる。


内田 …だから、自分で全部きちんと理屈を通せる話というのはかえって自信がもてないんです。ぼくごときの人間が「全部わかってしまう話」というのは、あんまりたいした話じゃないだろうなと思うから、テンションも上がらない。
 でも、この辺はよくわかるけれどもこの辺はなんだかよくわからない話ってあるでしょう。そういう話って、どうやったら辻褄が合うんだろうと一生懸命考えながら、時々「あ、そうか!」と一人で頷いたりしゃべっているから、結果的にはけっこう感動的なパフォーマンスになったりするんです。

内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)


なるほど。「けっこう感動的なパフォーマンスになったりする」ことのからくりがわかるような気がする。「自分→他者」に伝えるという、一方向的な仕方ではなく、「自分と他者」が共に「あ、そうか!」を分かち合うような時がおとずれる。その場において、感動が、生成する。双方に、あるいは双方向的に。それからもちろん、感動的なパフォーマンスは、「結果的に」、であるけれど。

このように、「受け売り」で話す仕方が、自ら楽しむこととして、また「自分の意見」あるいは「自分」を乗り越えてゆく方法として、意識的にとりこまれている。

集団のなかに自分が埋没してしまうのでもなく、あるいは「自分」が他者から切り離されたものとして徹底されるのでもなく、自分と他者との相互的な関係を捉える仕方で、ある意味、集団主義も、個人主義も乗り越えられている。「受け売り」を、肯定的に活用することによって、である。


それにしても、「自分の意見」だと思っていることも、あるいは「自分」だと思っている自分も、「他者の意見」や「他者」のありかたによって構築されたものであったりするのである。

けれども、そこでの「他者たち」の組み合わせや交響の仕方、あるいは生きられ方・経験のされ方は、それでも個々人によって異なるものである。内田樹にとっては、いつも、フランスの哲学者レヴィナスと武道家の多田宏の「意見」や「考え方」が響いているのだけれど、レヴィナスと多田宏の組み合わせと交響がかなうのは「内田樹」を通してであるし、また「内田樹」という人の生を通してである、ということだ。

その意味において、意見や考え方、さらには生きかたの「多様性」に、人はひらかれている。