「個としての私」がつくる「物語」。- 現代に生きる人間の、今もつづく課題。 / by Jun Nakajima

人生とは「物語」である。別のブログ(「人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。」)で、そのように書いた。

そして大切なのは、どのような「物語」を語るか、「物語」をどのように語るか、ということである。人生は、そのようにしてつくられてゆくのであり、どのような「物語」をどのように生きてゆくのか、ということが問われる。

そう書きながら、「けれども」という前置詞をおかなければならない。なぜなら、そのような「物語」を見出したり、つくりだしてゆくことが、大きな課題だからである。


「個人の物語」としたときに、課題は、さしあたって、第一に「個」であり、第二に(個人にとっての)「物語」である。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、2000年代のはじめに、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)の「文庫版まえがき」で、これらの課題について明示している。


第一の「個」について、日本人にとって、「個の確立」ということが大きな課題として、河合隼雄はとりあげている。


「個の確立」ということは、ヨーロッパの近代において生じてきたことで、、それがキリスト教を背景とする父性原理の強調によって成立してきたものである…。
 そこで、日本人はヨーロッパとは異なる背景の中で「個の確立」を考える必要がある。われわれは、いったいどのようなものを支えとして、自分の「個」を確立しようとするのか。天に存在する唯一の神を支えとしない、「個の確立」はあり得るのか。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


「個」や「個人」ということが中立的な仕方で語られる(傾向にある)が、「異なる背景」は視野にいれておかなければならない。


それから、第二の(個人にとっての)「物語」における大きい課題について、河合隼雄はつぎのように書いている。


 現代に生きる者の大きい課題はもうひとつある。それは「個」を大切にする限り、自分が生きていくためのスタンダードの物語などは、あり得ないということである。
 どの時代にも、どの文化にも、ある程度のスタンダードの物語がある。…最近の日本では、「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めるとか、官僚になる、などというスタンダード物語があった。しかし、現在では、それほど単純に、そのようなスタンダード物語を生きるのが幸福とは言えないようになってきた。
 したがって、現代に生きる人間としては、「個としての私」は、どのような物語を生きようとしているのか、それを見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


ここで語られる「最近」は、2003年頃の位置に立った「最近」である。もちろん、それから15年ほどがたつ現在の「最近」は、状況は異なる。ただし、ここで語られる課題が解決されてゆく方向にではなく、いっそう、「スタンダード物語」が消えてゆくなかに、ぼくたちは立っている。

「個としての私」がどのような物語を生きようとしているのかが、いっそう切実な課題として個々人にあらわれ、個人はそれぞれにじぶんの物語を見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。

それは、「スタンダード物語」が消え去りつつ、他方で「個人の物語」が要請される、という<過渡期(トランジション)>にいて、この過渡期をどのようにのりこえてゆくのか、という課題でもある。

過渡期のむずかしさは、一方で、消え去りつつあるがまだ形が(うっすらと)のこる「スタンダード物語」をどのように手放し、他方で「個人の物語」をつくりだすという、<解体と生成>にある。


ところで、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』という本のタイトルだけを見ると、なぜこの本がここで参照され引用されているか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。

河合隼雄は『源氏物語』を、紫式部という女性が「自分の物語を見事につくりだしたもの」として読み解こうとするのが、この本である。ここでは、『源氏物語』は「光源氏の物語」ではなく、「紫式部の物語」としてとらえられる。

千年も以前、「個」をこれほどまでに追求した一人の女性がいたという事実に、しばらく眠ることができないほどに興奮した河合隼雄。

そんな興奮に共振し触発されながら、きっちりと読めていない『源氏物語』にわけいっていこうと、ぼくは思う。