夏の足音が聞こえる、香港の「清明節」に。- 「生命」のリレーのなかに存在すること。 / by Jun Nakajima

本日(2019年4月5日)、ここ香港は「清明節」の休日である。

朝から陽射しがふりそそぎ、空はうっすらと雲がかかり、空気のよごれが少し気になるけれど、よく晴れた一日となった。日中は29度ほどまで気温が上昇し、外に出たときには、セミたちが鳴いているのを、耳にした。

「清明節」は、日本の「お盆」にあたるもので、祖先を敬い、家族で墓地にお参りにいく。

お墓参りをするには暑いなぁと勝手に気になってしまったのだけれど、清明節には雨がふりそそぐより、陽射しがふりそそいでいるのがよいと、ぼくは思ったりする。


昨年のブログでぼくは何を書いたのか気になって、ぼくは昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをひらいてみた。

昨年の清明節も、よく晴れた香港であったことを、ブログを読み返しながら思い出した。

そして、「よく晴れていたこと」だけでなく、「生命」という次元にまで降りていって書いていたことを、一年前のじぶんに思い出させられた。「清明節」(Ching Ming Festival)の「清明」を日本語読みすると「せいめい」となるけれど、ぼくは(思考が飛んで)「生命」ということを考えていた。

「生命」を考えることは、大それたことかもしれない。しかし、「祖先」ということをつきつめて考えると、誰もが、はるか太古の昔からの「生命たちのリレー」のうちに存在していることを知る。現代の時代を特色づける「個人主義」を履き違えると、それは人を周りの他者たちから切り離すだけでなく、この「生命たちのリレー」から自分の存在を切り離してしまうこともある。

ぼくたちは、今この時代に生きる人たちと共に生きる「生きかた」を見いだしてゆくだけでなく、「生命たちのリレー」というひとつの奇跡のなかで、過去から未来へとつながる「生きかた」を見いだしてゆくときにいる。


そんなことを書いた昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをここに再掲しておきたい。


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ここ香港は、本日(2018年4月5日)は「清明節」を迎えている。

「清明節」は、いわゆる日本の「お盆」にあたる行事である。清明節は旧暦の3月に到来し、香港の人たちはこの機会に墓地におとずれ、「清明」という漢字に表されているように、祖先の墓を掃除する。

清明節の当日はもとより、その前後の日に、お供え物などを入れた赤いプラスチック袋を手に提げながら、家族一緒に、墓地に歩いてゆく人たちを目にする。香港の、清く、よく晴れた日に。


香港政府観光局のホームページには、「清明節」は以下のように記載されている。


…この時期、中国の人は祖先の墓を掃除します。でも掃除だけで終わりません。清明節は祖先を敬う重要な儀式なので、家族全員で墓地の草むしりをしたり、暮石の碑文を塗りなおしたり、食べ物をお供えしたり、お香をたいたりします。
清明節の時期は伝統的に、先祖があの世で使うとされているものの紙のお供え物を多くの人が墓地で燃やします。…

「清明節」、香港政府観光局ホームページ『香港 Best of All It’s In Hong Kong』(日本語)


「紙のお供え物」は、お金を模したものであったものが、最近では時代を反映して、携帯電話・タブレット、車、冷蔵庫などの紙のレプリカがある。時代の反映のされ方は興味深いものだけれど、このような伝統的な行事が今も大切にされていることに、ぼくは目を惹かれる。

そしてそこには「家族」が、現代という時代の荒波にありながらも、きっちりと土台をなしていることに感銘をうける。日本のお盆とは異なる時期だけれど、清明節の、香港の人たちの行き交う姿に触発されて、ぼくも祖先や家族に思いをはせる。



そのような思いはいつしか、このぼくの身心に受け継がれているものへと向けられる。

リチャード・ドーキンスの言うような「利己的遺伝子」の視点から見れば、人は遺伝子にとっての「乗り物」である。遺伝子は過去から現在に至るまで、長い旅を続け、ぼくという身体に至っている。その意味において、祖先は、ぼくのなかに息づいている。


そしてまた、人の身体は、真木悠介の書くように、さまざまな生物たちの<共生のエコ・システム>である。


…今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
 われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。

真木悠介『自我の起原』岩波書店


ぼくたちを構成する細胞もまた、太古の昔から進化的時間の中をぬけながら、今のぼくたちに引き継がれてきているものである。地球のいろいろな生命たちのリレーのうちに、今のぼくがいる。地球のいろいろな生命たちも、ぼくにとっての祖先である。


そう書きながら、「生命」が、「清明」という言葉と同じ響きであることに気づく。「生命」は、清明節の字と同じように、<清く明るい>ものである。

いろいろな生命たち、そして祖先に深謝しつつ、いろいろな生命や祖先から受けつがれているこの身体に、ぼくは深く感謝をする。

香港の、清く、よく晴れた日に。