海外に住んでいると、やはり「現代日本人の意識」のようなことを考えてしまう。
さまざまな「異文化」との接触のなかで、異文化を理解し、それらを「鏡」としながら、じぶんを含めた「現代日本人の意識」のようなことを考える。あまり偏見的に見方を固定したくないし、最終的には文化を超えて「個人」ごとに異なるのだとも思いながら、それでも「現代日本人」に焦点をあててゆく。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)も、自身の心理療法の経験などから「現代日本人の意識」を論じることはきわめて困難であることを語っている。ただし、その困難さを確認したうえで「ある程度の一般論」を述べている。
…ある程度の一般論を述べるなら、日本人の意識は表層的には欧米化しているとは言えるのだが、少し深くなると、まだまだ日本の古来からの伝統的なものを保持していることになる。
ここに「表層的」と述べたことは、本人が通常生活において意識していることである。しかし、人間はあんがい自分で意識せずにいろいろ行動をしているし、非日常的な場面においては、通常の意識とまったく異なる意識がはたらくものである。それらの意識を深い層の意識と考える。
あるいは、意識的には自分は民主的に生きていて、そんな点でアメリカ人と変わらないと思っているが、アメリカ人から見ると、それは彼らの考えとは異質の「日本的民主主義」だったりする。つまり、日本人はアメリカ人と同じと思っていても、それの動因となる深層の意識のはたらきが異なるので、まったく異なる様相になってくる。河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)
2000年頃に書かれた文章だけれども、20年近く経った今も、この様相は変わっていないように、ぼくは思う。
つまり、ざっくりとした「現代日本人の意識」を語ると、表層意識はだいぶ「欧米化」されているが、深層意識には「伝統的な日本」が生き続けている、ということができる。
このことを、たとえば、海外における日系企業の「人事」に、コンサルタントとして密接にかかわってきたなかで、ぼくは身にしみて感じてきた。たずさわる人たちが海外・グローバルにおける人事ということを意識し、仕組みも日本とは異なる「欧米的」なものであったとしても、運用の過程でいつしか「伝統的な日本」がさまざまな仕方でまぎれこんでくる。
こんなことが続くと、海外の方々の眼には「日本人」が不可解な存在としてあらわれてしまう。日本人のあいだであれば深層意識の動因は(納得するしないは別として)了解できることであっても、海外の人たちにとっては「わからない」から、ときに「誤解」の幅がひろがり、深化してしまう。
事態は、これが「深層の意識」でのはたらきであるため、なかなか厄介である。表層の意識では「海外」のやり方(あるいは、異文化に限らず「人として」のアプローチ)にしたがってやっているつもりだから、「深層の意識」をメタ認知することが容易ではない。
欧米がよくて、伝統的な日本がわるいということではない。「表層の意識」だけでなく、「深層の意識」が異なった仕方ではたらくことから、いろいろな事態や誤解などが起こるのであり、まずはそのことを「理解する」ことが大切である。そして理解のうえで、じぶんの深層にうめこまれている「伝統的な日本」(のあり方ややり方)をあぶりだし、認知してゆく。
「現代日本人の意識」を論じるのは、たしかにむずかしい。でも、「ある程度の一般論」という見方において、ぼくの経験をさし挟んだとき、河合隼雄先生が述べていることが、ぼくにはよくわかる。
2002年からずっと海外に住んできても、ぼくの「深層の意識」には、まだ明確に対自化できていない「伝統的な日本」がいろいろな仕方で生き続けているのを感じることも、ぼくの「経験」のひとつである。