ポール・マッカートニーに生きつづける<ビートルズの精神>。- 『Get Enough』(2019年)の響きのなかに。 / by Jun Nakajima

同時代のなかで、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)がつくり歌う曲を聴くことができるのは、ぼくにとってしあわせなことである。

ビートルズはぼくが生まれるまえに解散してしまったし、ジョン・レノンはぼくがビートルズとその4人を知るまえにこの世を去ってしまったから、同時代において、ポール・マッカートニーの曲を聴くことができることは歓ばしいことだ(もちろん、リンゴ・スターも曲をつくり歌いつづけてくれている。が、ここは、ポール・マッカートニーの話である)。

さらに、76歳(1942年生まれ)のポール・マッカートニーが、いまでも<ビートルズの精神>でもって、<新しい試み>をつづけていることには勇気づけられるのである。


今年2019年の1月1日にシングル曲が世に放たれているなんて知らなかったぼくは、その『Get Enough』という曲を聴いたとき、ひどく心が揺さぶられた。「ポール・マッカートニー」的なメロディーを色調とする曲なのだけれど、それは、思いもしなかった(現代的な)仕方でアレンジがほどこされていたからである。

そこでは、「Auto Tune」のテクノロジーによって、ポール・マッカートニーの歌声が変声されているのだ。ビートルズが時代をきりひらいたよう革新性はないけれども、(ぼくの知るかぎり)ポール・マッカートニーの曲づくりにおいて<新しい試み>である。

そしてなにはともあれ、そのことが、時代をきりひらく革新性よりも、ある意味において(ポール・マッカートニー自身にとっても、聴く人たちにとっても)大切なことであったように、ぼくは思う。

そのポール・マッカートニーは当初、Auto-Tuneを使うことで反感をかうのではないかと懸念していたようなのだ。けれども、新しい技術を積極的に受け入れるビートルズの精神にもとづき、<新しい試み>へとふみきったという(※参照:Wikipedia「Get Enough (Paul McCartney song)」)。

ぼくは個人的に反感をもたない。もたないどころか、ポール・マッカートニーの声の新鮮さと深みを感じるのである。

数々の名曲(「Yesterday」「Let It Be」「Hey Jude」など)をつくってきたポール・マッカートニーが型にはめられた「ポール・マッカートニー」におしこめられるのではなく、<ビートルズの精神>によってひらかれてゆく方向性に、ぼくは惹かれる。

正直に言えば、(あの)「ポール・マッカートニー」に期待してしまう気持ちもないわけではない。どこかで、「Yesterday」や「Let It Be」や「Hey Jude」などを超える曲がでてくることを期待し、望んでいる。けれども、それ以上に、ポール・マッカートニーがどのように(またどこに)「ポール・マッカートニー」を超えでてゆくのかに、あるいは「ポール・マッカートニー」を生ききるのかに、ぼくは関心があるのである。

そんなことを思いながら、『Get Enough』の響きに耳をかたむける。そこに、<ビートルズの精神>を聴きとりながら。