とても疲れているとき、思っている仕方では休まらないことがあるものである。寝不足があきらかであれば寝れば元気になるものだけれど、寝ても何か疲れがとれないことがあったりするものである。そんなとき、逆に身体を動かすことで疲れがとれることもあるし、たとえば、読書をすることで疲れがいやされるようなこともある。
疲れ方にもよるけれど、読書をすることで疲れをとる、という方法をぼくは採用することが結構ある。読書に疲れたときも読書で疲れをとる、という方法を採ることだってある。
読書がー仕事のように感じる人にとっては、ありえない方法かもしれないけれども、ぼくにとっては、読書がそんな役割も果たしてくれるのだ。
もちろん、どんな本でもよい、というわけではない。
数冊の本を、だいぶ前に書いたブログ「ひどく疲れた日にそっと開く本 - 言葉の身体性とリズム」で、ぼくは挙げた。そこで挙げた、下記の本は、今でもぼくにとって特別な本たちである。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
ここ2週間ほど、『旅のノートから』はぼくの座右に(字のごとく「座右」に)置かれ、ときおりぼくは、真木悠介(社会学者)のことばの世界に降り立ってきた。真木悠介の「18葉だけの写真と30片くらいのノート」からなる『旅のノートから』は、真木悠介にとって「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」として書かれたことばたちである。
同じように、見田宗介(真木悠介)のパースペクティブを通して宮沢賢治の生を見晴るかした『宮沢賢治』。「同じように」というのは、この名著『宮沢賢治』において、「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」という視点が、「宮沢賢治」になげかけられているように、ぼくは感じるからである。(宮沢賢治は病に倒れて、志の途中で「挫折」したのだと考えている人には、見田宗介先生による「宮沢賢治」を一読されることをおすすめする。)
「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」に彩られたことばたちが、ぼくがじぶんの内側に灯を灯すのを手伝ってくれるのかもしれない。だからか、『旅のノートから』を本棚に戻してから、いつのまにか、ぼくは『宮沢賢治』を手にとっていた。
それから、今日もとても疲れていたところ、ぼくは、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を手に取ることにしたのであった。
村上陽子さんの写真(おそらく。少なくとも「カバー写真」は村上陽子撮影)を見ているだけでも心がやすらぐのだけれど、スコットランドとアイルランドの旅に触発された村上春樹のことばのリズムに、しずかに身をゆだねる。
村上春樹は語る。ことばがウィスキーであったならウィスキーのグラスを交わすように人と人はわかりあうことができるけれど、人はことばがことばでしかない世界で、ことばの「限定性」に限定されながら生きている。でも、「例外的に」と、村上春樹はつづける。「ほんのわずかな幸福な瞬間に、ぼくらのことばはほんとうにウィスキーになることがある」(前掲書)と。
ここのところぼくはウィスキーもお酒もほとんど(まったく)飲まなくなったけれど、村上春樹の差し出してくれることばを、まるでウィスキーのグラスを傾けるように味わい、心身をあたためている。