いつか読むことがわかっている本、いつかはわからないけれどいずれ読むだろうと予感のする本、読みたいと思いつつどこかで「まだ」と思う本、「そんなことごちゃごちゃ言っている暇があれば今にでも本をひらけばいいじゃないか」という声が聞こえつつもじっと「時」が熟すのを待っている本。
ぼくにとってそのような本に、心理学者カール・ユングの著作がある。膨大な著作群である。(Carl Jung『The Collected Works』第1巻から第18巻がまとめられたデジタル版があるのだけれど、ページ数で1万ページほどにもなる。)
少し読み始めたことがあるのだけれど、ぼくの側が「準備」できていないし、どこかまだその「時」ではないような気がして、本を閉じてしまった。
けれども、カール・ユングとその精神分析の学びを「閉じた」わけではない。心理学者の河合隼雄(1928ー2007)、ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)など、ぼくが尊敬してやまない知性たちを通じて学んできた。
本だけに限らず、カール・ユングに特化したポッドキャスト(英語)でもさまざまな知見にふれることができるため、ときどき聞いたりしている。
でも、ぼくのなかで「まもなく、正面から読み始める」予感がわいてきている。
そんな予感を感じさせるのに充分な「震え」を、ユングの分析手法をとりいれている実践家の著書を読んでいるときに出会ったユングのことばに、ぼくは感じたのである。
When an inner situation is not made conscious, it happens outside as fate.
- Carl Jung, Aion: Researches into the Phenomenology of the Self
内的な状況が意識化されないとき、それは外部にて運命(fate)として起こるのである。
とても鮮烈である。ユングの生涯の後年に出版された本のなかに出てくることばだ。
ユング自身の分析と説明の全体にふれたわけではないので、ここではこの細部には立ち入ることはしないけれども、引用されたこのことばを目にしたとき、ぼくの内部で、ほんとうに「震え」が起きたのであった。
そんな「震え」のなかに、まもなくカール・ユングの著作群に向き合う「予感」をぼくは感じる。
「When an inner situation is not made conscious, it happens outside as fate. 」。ほんとうに核心をついた深い洞察とすごい表現である。