本を整理整頓するとき、ある本を手にとって、つい読んでしまうことがある。本来は「整理整頓」なのだから、効率的に動こうと思うのであれば、途中で立ち止まって読んでしまうことは避けたい。でも、ついぱらぱらとページを繰り、ふと目がとまる。以前に読んだことを覚えている文章もあれば、ほとんど記憶にない文章もある。いずれにしろ、ふととまるところというのは、今のじぶんにとって「何か」を語っているところであるかもしれない。
そんな本の一冊に、大澤真幸・見田宗介『<わたし>と<みんな>の社会学』(左右社、2017年)がある。社会学者である大澤真幸によるシリーズ本(『THINKING「O」』)の一冊で、大澤真幸の師、社会学者の見田宗介がゲストである。
ぱらぱらとページを繰りながら、ふと立ち止まった箇所のひとつが「まえがき」であった。「まえがき」で、大学に入学した18歳の大澤真幸が見田宗介先生との出会いを通じて「学んだこと」が書かれている。
ぼくは見田宗介先生に私淑しているから、ぼくはぼくが見田宗介先生との出会いを通じて「学んだこと」という視点を重ね合わせながら読む。
ちなみに、大澤真幸が大学に入学した1977年、見田宗介は、真木悠介の筆名で二冊の書物、今では名著となっている二冊(『気流の鳴る音』『現代社会の存立構造』)を世に放っている。それらを読みながら、また見田宗介の「比較社会学」の演習に出席しながら、大澤真幸は「驚き」とともに決定的な「学び」を得る。
18歳の私が驚きとともに学んだことは、生きることと考えることはひとつになりうること、人生と学問を統一できるということ、人が生きる上で直面する諸々の深刻な問題に学知を通じて対することができるということである。
大澤真幸・見田宗介『<わたし>と<みんな>の社会学』(左右社、2017年)
大澤真幸が注記しているように、それは、恋愛や就職などの個別の悩みに人生相談的な回答を与えるものではない。そうではなく、はるかに、ファンダメンタルな次元におけるものだ。学問はときに、「<世界>の見え方を変え、人生を生き直すことを可能にする」のだと、大澤は書いている。
<世界>の見え方を圧倒的な仕方で変えることができること。これは、見田宗介(真木悠介)先生の著作との出会いを通じて、そしてとことんそれらで語られていることに降り立っていくことで、ぼくが経験し、実感したことでもある。
これらを学び得たということは、ひとつの幸福である。
そして、そのような「学び」に対してじぶんを閉じてしまうのではなく、ひらかれてあるのであれば、誰もがそのような経験をつかむことができるのである。