モノを減らしながら、よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの「学び」は、ほんとうに多様で、思っている以上に厚みがある。
人は「自分が何者か」ということを、たとえば所有するモノによって意味づけてゆくことがある。明確に意識していなくても、いつのまにか、モノが「自分」をかたちづくり、終わりのない所有への欲動が作動する。あるところまではこの方法はうまくいくかもしれないけれど、そのような生きかたのなかで、<自分>が見えなくなってゆく。
だから、モノを減らしてゆくことは、<自分>をふたたび取り戻してゆくプロセスとも言えるのだけれど、モノによって支えられてきた「自分」がそこに存在しているから、モノを減らしてゆくことは怖かったりするし、ただモノだけでなく、内面の「何か」を失ってしまうような感覚にとらわれることもあるのである。
そのような感覚を経験しながら、そのプロセスは、そこに飛びこむ者たちに、多様で厚みのある「学び」をもたらしてくれることになる。
どんなモノに囲まれ、どのようなモノが隠れていて、それらがどのようにしてそこに存在しているのかなど、プロセスのひとつひとつに立ちどまって耳をすましてみると、それらは必ずや「何か」を教えてくれるものである。
今は使っていないけれど棚にしまわれているモノ、使っているけれど粗末にあつかってしまっているモノ、歓びを感じないけれどそこにあるモノ。あるいは、それらのモノの置かれかた、などなど。それらのモノを通して、それらのモノを入り口として自分の内面に降り立ちながら、そこで感じたり、考えたりすることに目をこらし、耳をすます。
そこに、「自分」と「世界」とのつながりかたの輪郭があらわれるのである。
そこまで書いて、べつのブログでふれた山本七平の(1921-1991)ことばが浮かんでくる。日本人の「働く」ということに見られる精神構造についてであるが、これと同じ精神が、上述のような態度にも見られるのかもしれないと、自分の精神を括弧に入れる。
…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
ここで、禅とエコノミック・アニマルが「同じ発想」からきているのだと山本七平は語っているが、「片づけ」のプロセスにも同じ発想が生きているのだろうか。「片づけ」を機能だけで見るのか、あるいはそこに修行を見出すのか。
ところで、よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの学びを得てきたなかで、より深く感じたのは、「やってみないとわからない」ことである。このことをすべての事象に適用しようとは思わないけれども、「やってみないとわからないことがあるのだ」ということである。
ヘルマン・ヘッセの名著『シッダールタ』で、シッダールタは「教え」だけにうずもれるのではなく「経験したいんだ」という気持ちを抱いて「世界」に旅立っていったけれど、物質的によりミニマルな生きかたも、経験してみることである。
そこには何もないかもしれないし、自分にとって大切な「何か」が存在しているかもしれない。存在と不在の振れ幅をふくめての、経験ということである。