ここ香港での、「逃亡犯罪人条例等改正案」に反対する抗議活動。その背景と刻一刻と動いてゆく情況はさまざまなメディアでとりあげられているので、それらに目を通してほしい。
メディアで報道されている情況とはべつに、もちろん、人びとの生活はつづいている。あたりまえといえばあたりまえのことではある。ぼくも、生活をつづけている。そして、メディアを通して報道されている情況と、そんなふうにつづく生活のはざまで、情況を注視する。
生活はいつもどおりつづいているように見えるのだけれども、なんとなく、あるいは何かがズレてしまったような感覚をぼくは覚える。香港に住んでいる人たちは、いつもどおり、買い物をし、外食をし、学校や仕事に通っているのだけれど、なにかが「いつもと違う」感じなのだ。どこかそわそわして落ち着かない感じもあれば、どこか静かな雰囲気もただよっている。強い雨がときおりふりそそぎ、天気が落ち着かないことも影響しているのだろうか。
そんな「感覚」は、ぼくのまったく勝手な感覚ではあるのだけれど、12年以上にわたって香港に住み、それなりにいろいろと経験してきたことをふまえての感覚である。ぼくの内面が外部に投影されているようなところもないとはいえない。だからその場所の「内部」にいるとわかりづらいこともあるけれど、でも「内部」にいるから感じる感覚もある。
香港という場所の特徴のひとつは、その場所の凝集性ともいうべきところにある。香港自体は、その中心部だけでなく隅から隅までを見晴るかすと思っている以上に大きいと感じるのだけれども、それでも、やはり地理的には小さい。経済社会活動の中心がぎゅっと中心にあつまっていて、いつでもどこにでも行ける距離感である。そんな具合に活動空間がひろがっていて、その空間のなかで日々活動し、暮らしている。
だから、「何か」が香港内で起こると、その物理的かつ心理的な影響が波及しやすい。ぼくは、体験・経験もふまえ、そんなふうに考えている。もちろん、メディアやSNSの「空間」がそこにはいりこんでくる。それらの「空間」が重なりながら、しかし、凝集性による他者や出来事とのかかわりの物理的な近さが場の雰囲気をつくりだす。この物理的な近さが香港の特徴のひとつである。
そんな香港に、強い雨がいくどもふりそそぐ。豪雨警報が発令されるほどの雨である。強い雨は雨雲とともに、香港を薄暗く映す。ときおり雲のあいだから射す陽光のような光が、どんな仕方で香港に射すのだろうかと思う。
以上、少しの、「感覚」のメモである。