書こうと思っても文章が書けないときがあるものである。言葉にならないときがある。
たとえば、心身がほんとうに疲れているときに書けなくなったり、あるいは旅にどっぶりとつかっているときに書けなくなったりする。また、一日だけなど、ある短い時間・期間書けなくなることもあれば、比較的長い時間・期間にわたって書けなくなることもある。
ある程度長い期間にわたって「文章が書けなくなった」ときが、ぼくにはある。ただ書けなくなった(あるいは書かなくなった)のではなく、書こうと思っても書けなかったときである。
それは、2002年から2003年にわたって、西アフリカのシエラレオネに住んでいたときである。紛争が終結したばかりのシエラレオネに緊急支援を展開するNGOの一職員として活動していたときであった。
現地情勢はおちつきを取りもどしはじめているときではあったのだけれど、それでもそこでの現実と情況にぼくは圧倒され、また緊急支援の仕事に没頭しさまざまな問題・課題に直面していたこともあって、ぼくは「書くこと」ができなくなっていた。
もちろん仕事において書く仕事はこなしてはいた。報告書など、日本語と英語で書く仕事はたくさんあった。けれども、ぼくが「体験・経験していること」をその深みにおいてとらえ、言葉に表出してゆくことができなかった。
時間も、心身の状態も、「余裕がない」ということはあった。それほどに忙しかったし、支援の現場をとびまわりながら何役もこなし、マラリヤとも闘いながら、体力勝負のところもあった。さらには異文化のとまどいもついてまわる。
こんななかで、ぼくは書くことができなかった。
そのことを後悔をしているわけではない。とにかく「支援」に注力したことに、後悔はない。
また、書けないことが「悪い」ということでもない。仕事で書かなければいけないことは遂行していかなければいけないけれど、仕事を離れて書くことにおいて書けないことについて、良い・悪いということを言っているのでもない。
ただ、生きているなかではそんなときもある、ということ。それほどに、現実や体験・経験が圧倒するときがあるのだということ。でも、そんななかでも、深いところでは何かを感じているのだということ。それらは、いつか言葉になることもあれば、ならないこともあるということ。言葉になる「いつか」は、ある程度すぐであることもあれば、何年も先であることもあること。
そんなふうにして、体験・経験は、ぼくたちそれぞれの<土壌>となっていること。
ここ香港で、書こうと思っても言葉にならないなぁ、と思っていたら、シエラレオネの「あのとき」の感覚を憶い出したのであった。