詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)のことばに、よくとりあげられる、次のことばがある。
しあわせは
いつも
じぶんの
こころが
きめるみつを
ここでは「ことば」だけをひろったけれど、ぜひ、相田みつをの「書」を見てほしい。「書」のなかに、その一文字一文字、あるいは余白に、書を見る人それぞれに「何か」を感じるだろう。
ここ香港のレストラン(というより大衆食堂)で遅めのお昼をとった帰り道に、木漏れ日が射すなかを歩きながら、ふと、相田みつをのこのことばが思い浮かんだのであった。
このことばにはじめて触れたのはいつだったか。20年以上まえ、相田みつをの存在とことばをはじめて知り、読んだときにも、このことばに出会っていたような気もするけれど、定かではない。確かなのは、2010年に、東京フォーラムの相田みつを美術館での出会い(あるいは再会)である。
母が亡くなった喪失感のなかで、たまたま東京国際フォーラムの近くを歩いていたとき、なぜか、ぼくは相田みつを美術館にひきつけられたのだ。そして、そこで出会った相田みつをのことばたちに、ぼくは、ほんとうに支えられたのである。
そんなことばたちのひとつに、このことばがあった。
このことばは「あたりまえ」のことだと言われれば、そうかもしれない、とぼくは応える。
ぼくにとっては、ひとことひとこと、「しあわせ」も、「いつも」も、「じぶん」も、「こころ」も、そして「きめる」も、自明のことではないのだけれど、まずはそう応えるだろう。けれども、これらひとことひとことをいったん置いたとしても(日常意識でふつうにとらえたとしても)、この「あたりまえ」が実際にはすんなりと日常にはいっていかないところに、いろいろと考えさせられるのである。
「あたりまえ」のことであっても、頭ではわかっていても、あるいは心の奥深くにおいてわかっていても、いつのまにか、じぶんではない他者やモノに、じぶんの「しあわせ」が依存してしまっていたりすることがある。
相田みつをの「書」を見てみると、最後の「きめる」の文字が相対的に細めで、字がかすれている。わかっていても、「きめる」という動詞を日常に展開させることのむつかしさが、この文字の揺らぎにあらわれているように、ぼくには見える。
木々がゆれ、その先に海の存在を感じながら、ふと、相田みつをのこのことばがぼくの心に浮かんだのは、ようやく、このことばが語る経験をぼくが日常のなかで感覚し、生きはじめたからかもしれない。
それは、相田みつをの細く少しかすれた「きめる」の文字のように、決して力強いものではない。でも、生きる経験を積み重ねてゆくなかで、より深く感じるようになってきていることを、ぼくは思う。