「The Best is Yet to Come」という思想(生きかた)。- <近代>という時代の特質と生。 / by Jun Nakajima

🤳 by Jun Nakajima

 ドナルド・トランプの「2020年一般教書演説」は、「The Best is Yet to Come」のことばで閉じられた。思い起こしたのは、以前、自己啓発のオーディオ(英語)を聞いていて、コースのひとつのチャプターが、「The Best is Yet to Come」で閉じられていたことだ。(フランク・シナトラの歌のなかにもある。)

 以前聞いたときは、とてもよい響きが耳に鳴り響いたものだ。最高はまだこれからやってくる。力強い声でそう語られると、「これからだ。やってやろう」という気持ちがわいてくる。

 けれども、それと同時に、「The Best is Yet to Come」は、疎外された生の形式を語っているように聴こえる。そこで「語られないもの」は、いま現在の生であり、どこまでも満足しない生である。

 もちろん、誰によって、どんなときに、どのように語られるのかは大切である。ことばを、それが語られることばの海からひっぱりあげて、ああだこうだと語ることは、語られることばの本質を脱色してしまうかもしれない。

 そのことを認識したうえで、けれども、「The Best is Yet to Come」の響きをただ「かっこいい」だけで終わらせるのは、<これからの生きかた>を生きるという視界において、危険だと思う。

 「The Best is Yet to Come」が真実のことばとして現れることもあるし、ひとを救うことばともなることはあるだろうけれど、そこで立ち止まって、「じぶん」の内面に光をあてたいものだ。「いま」に満足しない生は、いったいいつになったら満足がやってくるのか、と問いかけながら。

 「The Best is Yet to Come」の思想が疎外された生の形であるとするならば、あるいはその思想が生を疎外するものであるとするならば、それは、「Best」を永遠に先送り思想となるときだ。「Best」がやってくることはない。

 生の「意味」を未来へ未来へとおくりだしてゆく。社会学者の見田宗介先生は、このような生のあり方を明晰に捉えている。

 …「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ。未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ。現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。先へ先へと急ぐ人間に道ばたの咲き乱れている花の色が見えないように、子どもたちの歓声も笑い声も耳には入らないように、現在の生のそれ自体としてのリアリティは空疎化するのだけれども、その生のリアリティは、未来にある「目的」を考えることで、充たされている。…

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 「The Best is Yet to Come」は、<近代>という時代の特質、生を(目的でなく)絶えず手段化してゆく生のあり方に共振することばだ。生のリアリティを、未来にある「目的」に向けて投じてゆく。

 フランク・シナトラが1960年代、「The Best is Yet to Come」という(恋愛の)歌を歌ったときには、生のリアリティが空疎化してゆくような響きは鳴り響いていない。アメリカも、日本も、他の先進産業地域も、たしかな「未来」を夢見ることができた時代だ。

 いまは果たしてどうだろうか。そんな問いと共に、「The Best is Yet to Come」ということばと共に、じぶんの内面に光をあてなければいけない地点に、ひとも社会も立たされている時代にいる。