「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。
でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。
「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。
東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。
でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。
「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。
だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。
「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。