香港で、紅茶・ミルクティとコーヒーが出会うところ(「鴛鴦」)。- 四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』の繊細さ。 / by Jun Nakajima


香港にいながら、「香港」に関する本を探していたときに、共に文学や批評を専門とする四方田犬彦と也斯の往復書簡をまとめた本、『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)を見つけた。

その時は、読もうと思わなかったのだけれど、今、この本を手にしてみて、四方田犬彦と也斯の繊細な観察眼と文章に心をうたれる。

また、也斯の文章を日本語に訳しているのは池上貞子先生で、大学時代に、池上貞子先生の授業で中国文学を学んだことを思い出す。

「香港に横たわっている文化的多層性を歴史的文脈のもとに分析的に観察する力」(四方田犬彦)によって、ぼくが今いる香港をその歴史という重層性とともに見せてくれるとともに、大学時代に遡るぼく自身の「歴史」も重なりながら、時間と空間がさまざまに交錯するような読書体験を、ぼくは味わう。

往復書簡は、さしあたって、也斯の「香港」と四方田の「東京」を行き来する。

四方田は日本・東京という立ち位置から文章を書き、香港に届ける。

日本の読者は、通常は、同じように日本にいて、「身体的」には同じ立ち位置から、この本を読む。

ぼくは今は香港で、この本を読んでいるから、四方田の語りが、時に香港にいるぼくに宛てられるような気がして、不思議な感じがする。

そのような読書体験を楽しみながら、二人の繊細な文章に心が動かされる。

 

也斯は、往復書簡において「食べ物」を題材にはじめることを提案する。

食べ物からコミュニケーションを開始することは、「真っ先に他の文化との接点を知ること」(也斯)になるからである。

文化と文化との<境界線>を越えてゆくのに、食べ物はコミュニケーションを容易にしていくのだ。

也斯は、「香港の食」の話を、香港の喫茶店でだされる独特の飲み物を題材につくった彼の詩を紹介することではじめる。

 

鴛鴦

五種類の異なる茶葉からつくる
濃厚なミルクティー 布の袋か
あるいは伝説のストッキングで やんわりと混雑を包み
もう一つのティーポットのなかに注ぐ その時間の長さが
茶の味の濃さの決め手 この加減が
うまく調節出来るかしら もしも ミルクティーを

もう一つのカップのコーヒーに混ぜたら この強烈な飲み物は
圧倒的な力で 相手を抹殺してしまうだろうか
それともまったく別の味? 街頭の屋台では
日常というかまどの上に 義理人情と世故を積みかさね
日常の世俗さと高尚さを混ぜあわせる 勤勉なそしてまたすこしだけ
散漫な……あの何とも表現しようのない味

四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)

 

ここで描写される飲み物が、紅茶とコーヒーをミックスしてつくられ、「鴛鴦」(Yuenyeung, Yinyeung, Yinyong)と呼ばれる飲み物だ。

ぼくも初めて口にしたときには、「散漫な……あの何とも表現しようのない味」を感じたものだ。

也斯は、この詩で、「二種類の異なる事物を混ぜあわせること」と、香港における「東西文化の合流」を重ね合わせながら、文章を紡いでゆく。

「東西文化」の融合の結果として、香港では「ミルクティ」が一般に飲まれている。

店ごとに味が異なり、それを試していくのは、楽しみのひとつだ。

美味しいミルクティの「淹れ方の秘訣」は、いろいろな言い伝えがあったと、也斯は紹介している。

 

…最も荒唐無稽な説は、女性の絹のストッキングで濾すと、美味になるというものです。実は、この言い伝えも香港の歴史の発展段階と関係があります。五十年代に上環の三角碼頭で働いていた労働者たちが、そのあたり一帯の屋台を歩き回っているうち、茶を煮出した袋を見つけました。それはちょうどその頃に西洋から香港に入ってきたばかりの、女性用の肌色のストッキングにそっくりだったのです。…

四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)

 

この「勘違い」が伝わって、ストッキングで濾したお茶はおいしいということになったという。

香港の紅茶の煮出しを知っている人たちは、この「勘違い」を笑うことはできないだろう。

也斯の詩には、その言葉と行間から、「香港」を感じることができる。

香港の喧騒に囲まれ、立ち止まることを忘れてしまいそうになる中で、也斯の言葉が「香港」を繊細な仕方で、ぼくに語ってくれる。

 

往復書簡は、香港と日本の交錯が、上述のように、歴史的な文脈による文化的多層性の中で語られ、また読み解かれてゆく。

ここ香港にいて、その語りに耳をすましていると、やはり、時間と空間の軸が、ぼくの想像の中でぶれて曖昧になっていくのを感じる。

現在の都市空間に、過去の風景が見えてくる。

文化性に欠けると言われる香港だけれど、そこには<文化>が見えてくる。

人がいるかぎり、そこには人々の生から形作られ、伝えられる<文化>がある。

見えないものを見る力を、也斯と四方田は教えてくれる。

 

也斯が香港の文学や作家が陽の目をみることを望みながら他界したのが2013年。

あれから4年。

香港の文学や作家たちは、也斯の望みをどのように承継しているのだろうか。

紅茶・ミルクティとコーヒーが出会う、ここ香港で。