海外にいて、同郷の人たちに出会うことは、時に心が踊る出来事だ。
もちろん、まったく共通点のないような他者(例えば、はじめて出会う国の人たち)と出会うことも歓びである。
そのことを確認しながら、他者との「共通点」があることの歓び、それは例えば海外にいて同郷の人たちに出会うことの歓びがあることを、ぼくは感じる。
こんなことを考えるきっかけは、そもそも、カレー専門家の水野仁輔のプロフィールを見ていたときであった。
「ほぼ日」の糸井重里に「カレースター」と呼ばれる水野仁輔は、「カレーにまつわるあらゆることのスペシャリスト」で、カレーの学校を開いたりと、面白いことをしている。
それで、たまたまプロフィールを見ていたら、「浜松市出身」とある。
少し検索すると、水野仁輔はかつてぼくと同じ高校の出身で、年齢的に見ると一年上の先輩であったことを知る。
彼は別に海外にいるわけではないけれど、より広い社会の中で、共通点として「同郷」を共有することに、ぼくは驚きと歓びをおぼえたのだ。
その検索の過程で、ジャズピアニストの上原ひろみ(Hiromi)が、同じ高校の出身であったということを知る。
ぼくよりも4つ下の代であったから、同じ時期ではないけれど、彼女はぼくと同じ部活「軽音楽部」でロック的な活動をしていたという。
上原ひろみはアメリカ在住だから、例えばぼくが海外で彼女と出会うことがあれば、軽音楽部のことを語るだろうなと、勝手に想像する。
上原ひろみや水野仁輔やぼくが通った高校は、文武両道で、とても自由な校風に彩られるところであった。
その自由さが、日本や世界のいろいろな分野で活躍する人たちの<土壌>を耕したであろうことを、ぼくは思う。
そんなことを考えながら、「海外で出会う同郷の人たち」ということを、ぼくは考えていた。
「同郷」とは、比較的大きく捉えれば「日本人」であり、小さくはぼくの出身である「静岡県」であり、さらに小さくは「浜松市」であり、といった具合だ。
ある意味で、「確率論的な可能性」の中で、出会うことの確率が少なくなればなるほどに、驚きは大きくなる。
西アフリカのシエラレオネにいたとき、当時2002年において、シエラレオネには「日本人」は10名もいなかった。
シエラレオネに日本の大使館はなく、ぼくが所属していたNGOの同僚、それから国連の日本人職員が数名で、総計5、6名であったと思う。
そこで、「日本人」に出会うこと自体が、日本から遠く離れた土地ということもあって稀であり、親密さを感じさせることであった。
東ティモールに移ってからは、「日本人」が増えた。
ぼくの記憶では、自衛隊の人たちを除くと(自衛隊は途中で任務を終えた)、日本人は70名程であったと思う。
「日本人」ということに驚きはなかったけれど、そこで出会う日本人の人たちとの「共通性」があれば、それは驚きと歓びを届けてくれた。
でも、同郷の人にはそれでも出会うことはなかったと思う。
香港に移ると、「日本人」は圧倒的に増えた。
香港内に、2万人ほどもいるという。
その中で、仕事などを通じて、「日本の出身」をよく聞かれたり、尋ねたりしてきたものだ。
ぼくの「実験的な経験」からは、「静岡県」という枠組みになると、実はそれほど多くはない。
ましてや「浜松市」になると、この10年で数名であった。
同じ「中学校」を出身とする方は、1名であった。
でも、この「確率論的な可能性」の低さの中だからこそ、同郷の人たちにお会いすると、驚きと歓びが増すものである。
「翼をもつことと根をもつこと」(真木悠介)という、人間のもつ欲望の両義性がある。
「翼をもつこと」の欲望がまさるぼくは、Global Citizen的に世界で生きていくことにあこがれる。
真木悠介が語るように、地球そのものを「ふるさと」とすることで、この両義的な欲望は共に満たされる。
それでも、ぼくはときに、「根をもつこと」の狭い形式である「同郷」(出身地など)に根ざすような関心と欲望を、じぶんの中にみる。
そこに執着はもたずに、しかし他者との「共通性」を共有することの歓びを感じながら。
そして、翻って「地球そのものをふるさととすること」に戻れば、ぼくたちは誰とでも、<共通性>を分かち合うことで生きていくことができるということでもある。