「世界を変える」を紐解く。- 重層的/複層的に「世界」をとらえながら。 / by Jun Nakajima

「世界を変える」ということを、本気で、考えてきた。

「世界を変える」ということを、本気で、行動にうつそうとしてきた。

「世界を変える(change the world)」ということを言うと、普通、周りからは「何を言っているんだ」的な反応が返ってきたりする。

ここでは、「世界」は「地球大」のイメージとして、会話の中に現れる。

世界が「理想の時代」であったときには、その言葉はある「真実」として迎えられたのかもしれないが、たとえそのような時代にあっても、「何を言っているんだ」的な反応はあったはずだ。

 

それにしても、「世界を変える」という言葉は、極めて曖昧な言い方である。

「世界を変える」ということの中には、世界の「何を」変えるということが語られていない。

語られる状況や環境、そして語る者それぞれの立ち位置によるところが大きい。

共通性があるとすれば、「よい方向に変える」という意識がねりこまれていること。

ただし、この「よい」は、人それぞれであったりするから、「良さ・善いこと」の意味と定義の迷宮にはいりこんでしまう。

そんな中で、「happiness」が登場したりする。

人は幸せな生を求め、社会は幸せな社会をめざす、などなど。

ところが、「happiness」ということの意味と定義の迷宮もあり、また「happiness」ということが導く生の限界に、ぼくたちはぶつかることになったりする。

 

この「(世界の)何を」については、ひとまず横においておく。

前段の意図は、「世界を変える」ということの曖昧性を述べておくことである。

「世界を変える」ということは、ぼくの中においては、重層的/複層的に捉えられ、考えられ、行動に落とされている。

そして、この「重層/複層した世界への視野」が、大切である。

シンプル化して、並べると次のようになる。

  1. 世界(グローバル社会、地域、国などの)
  2. 生活世界(直接的に関わる家族、友人、仕事関連の世界)
  3. じぶんの世界

「世界」は、地球大のイメージにまで、その空間をひろげる。

「世界」は、未来へと時間軸をひろげてゆく。

しかし、日々の生活においては、ぼくの生活圏における「世界」のことだ。

家族や友人という拠点からひろがる「生活世界」であり、仕事という拠点からひろがる「生活世界」である。

「世界」とは、「人と人との関係性」のことである。

さらには、「じぶんの世界」へと、視点と行動は、重層している。

この「じぶんの世界を変える」ということを、例えば、成長などと呼ぶ。

こうして「世界を変える」ということは「じぶんの世界観・見方・感じ方」を変えてゆくということがある。

その影響力の中で、生活世界を変えてゆく、あるいは生活世界が変わってゆく。

さらに大きな地球大の「世界」の視点から見れば、じぶんを変え、生活世界を変えることは、「世界が変わる」ことの大きなうねりのひとつとなることができるかもしれない。

「世界を変える」というよりも、「世界が変わる」ことへの、世界にひろがるたくさんの試みのひとつになるということである。

 

ここで、やはり「世界を変える」ことにおいて、「世界をどの方向に?」ということが、どうしても現出してきてしまう。

この問題を考えるときに、社会学者の見田宗介が社会理論を純粋モデルとして描いた「交響圏/ルール圏」が、その議論の方向性の「土台」をつくってくれている。

理論は、「他者の両義性」(「歓びの源泉である他者」と「苦しみの源泉である他者」)に照応し、社会の構想は「二つの系譜」があることになる。

 

…一つは、直接に歓びであり、<至高なるもの>の生きられる形を解き放つ生のあり方、関係のあり方を構想するものであり、一つは、人間が相互に他者であり、それぞれに異なる仕方でこの<至高なるもの>を生きつくそうとすることの事実からくる、不幸と抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化しておこうとするものである。…<他者の両義性>が、具体的にみると、その圏域をたがいに異にしているということ。そしてこの圏域の異なり(限定性/全域性)という事実が、じっさいの社会の構想にとって、実質上決定的な意味をもつということ…。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

見田宗介は、圏域を異にするという事実からひきだされる社会構想の形式として、<関係のユートピア・間・関係のルール>を定式化する。
 

…この一般化された形式に、<至高なもの>の生きられる関係を解き放つこと/<至高なもの>の生きられる関係の自由を相互に保障すること、という二重の課題を実現する仕方で内実を充たすものとして、<交響するコミューン・の・自由な連合>としての世界の構想が提起された。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

見田宗介がここで<至高なもの>と呼ぶもの(上述の「良さ・善いこと」)を、他者に強いてはならない、「自由な社会」という世界の構想である。

このことを踏まえた上で、最初の3層に重ね合わせると、次のように並べることができる(なお、3層は完全に区分されるのではなく、重なりをもちつつ圏域を異にしている)。

  1. ルール圏
  2. 交響圏
  3. じぶん(自我)

「世界を変える」ということにおける「世界」は、ぼくの中で、このような世界の構想を下敷きとしながら、ぼくの生を方向づけている。

 

このブログは「世界を生ききる」というメッセージのもとに、書いてきている。

これまでのブログでもそうだけれど、「世界」を重層的/複層的に捉えながら、考えながら、ぼくは書いている。

グローバルにひろがる「世界」を生ききるために、じぶんの世界を生ききること、じぶんの世界を変えていくこと。

そのような「じぶん」が世界いっぱいに、それぞれに異なる仕方でひろがることで、交響するコミューンは交響性の実質を開き、そして/同時に、自由な連合の総体としての世界も変わってゆく。