「本書の狙いは、生ける社会学者たちの思考に、消えない火を点すことにある」
社会学者の大澤真幸が、著書『憎悪と愛の哲学』(角川書店)の「まえがき」の最後におく言葉だ。
「生ける社会学者たち」とは、いわゆる「社会学者」だけのことではない。
人は誰もが、民族社会学者(フォーク・ソシオロジスト)、つまり生ける社会学者たちである、と大澤真幸は本書を書き始めている。
<他者の両義性>(歓びの源泉としての他者と苦しみの源泉としての他者)に向き合いながら、大澤真幸はこう書いている。
…もし、他者たちとともにいるということを主題とする思考を、広く社会学と定義するならば、人間にとっては、生きることと社会学することはほぼ重なっている。「社会学 sociology」という語が発明されるよりもずっと前から、人間は社会学者である。…
だが、民族社会学者であろうが、専門の社会学者であろうが、その人の社会学的な思考と想像力の深さを規定する鍵的な要素がある。それは<概念>である。自分たち自身の行動や経験について考えるということは、<概念>を発明し、また<概念>に命を吹き込むことである。
思考は行動に対していつも遅れている。…<概念>は、行動の全体に対して、思考がどれだけ明晰にその意味を把握できたかを示している。
大澤真幸『憎悪と愛の哲学』角川書店
本書は、NPO「東京自由大学」で、大澤真幸が「社会学の新概念」というタイトルで行った連続講義の内の二つの講義録である。
二つの講義で論じた概念は、<神 God>と<愛 love/憎悪 hate>である。
【目次】
第1章 資本主義の神から無神論の神へ
1.「私はシャルリ(=ゾンビ・カトリック)」
2.資本主義の神
3.神の気まぐれ
4.もう一人の神の(非)存在
第2章 憎悪としての愛
1.三発目の原爆
2.原爆の火花
3.さまざまな歴史概念
4.憎悪の業
<神 God>と聞いて気持ちと感心が引いてしまう前に述べておきたいのは、大澤真幸が第1章の講義で示すのは、最も世俗的なものと思われている「資本主義」が、宗教現象であり、神の存在を無意識に前提にしているということだ。
大澤真幸は、精神分析のラカン派の人たちの間で以前流行したという、ある精神病者をめぐるジョークを取り上げている。
およそ、このような話だ。
ある精神病者が、「自分は穀物の粒である」という妄想にとりつかれていて、病院に入院していたという。
入院で、ようやく、自分は穀物の粒ではなく人間であることを認識し、退院にいたった。
しかし退院してすぐに、彼は血相をかえて病院にもどってきてしまう。
病院の外に鶏がいて、「私は鶏に食べられてしまうかもしれない」と思い、もどってきたと言う。
医師は、自分が穀物の粒ではないと納得したはずだと尋ねると、彼はこう答えたという。
「もちろん、私はそのことをわかっている。だが、鶏はわかっているのでしょうか?」と。
ぼくたちは、そんなばかげたことを、というように、この「妄想」を笑うことができないことを、大澤真幸は日本人にとっての「空気」と「世間」という事例を挙げながら明晰に展開していく。
日本人は、「私はそのことをわかっている。だが、鶏は…」という妄想の<形式>を、例えば「空気を読む」ことの中に、同じように生きている。
「私は~をわかっている。しかし『空気A』はわかっていない」という判断の形式だ。
「空気」はそのまま、「私は違う。しかし世間は…」というように「世間」にうつしかえることができる。
「私はわかっている。だが空気(世間)は…」という判断・行動の形式を、ぼくたちは日常にさまざまに見ることができる。
日本の「働き方改革」なども、「私はわかっている。だが…」とつぶやく、同じ形式の内にあるように、ぼくには見える。
「空気」や「世間」そのものは神ではないけれど、大澤真幸が語るのは、その形式において、「空気」や「世間」は「神」(神なるもの。彼は広義に「第三の審級」という独自の概念を提示している)へとつながる線をもっているということである。
大澤真幸は、このような<形式>から、理路整然と、資本主義において同様なことが起こっていることを示している。
大澤真幸の「仮説」は、資本主義的な行動形式を規定しているものが、今であっても、プロテスタントの神(マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)である、というものだ。
「自分は神の存在を信じていないけれど、神の方はどうなのか」と、上述の精神病者と同じように、人は信じているという自覚がないままで、信者と同じように行動しているということである。
非プロテスタンティズム系の社会は、地球の「空気」を読んで、グローバル資本主義の「空気」を読んで行動する。
日本人・日本社会は、地球の「空気」を読むことで、非西洋圏の中でも突出して資本主義への適応が早かったと、大澤真幸は言う。
大澤真幸は、著作の中で、さらにすすめて、「資本主義の宗教的次元」を明晰に語っていき、資本主義社会を徹底的に相対化してゆくために、ほんとうの<無神論>へ向かうための方途を示し、第1章を閉じている。
第2章は、ここでは立ち入らないけれど、「汝の敵を愛する人を憎みなさい」というキリストの言明を起点にし、「敵を愛しなさい」という言明の反対「愛する人を憎みなさい」という言明を併せながら、最も深く愛することが同時に憎むことでもあるということを、さまざまな事例をとりあげながら、深く考えている。
ここで取り上げたポイントは、この著書の数々の深い洞察のなかの、ほんの一部である。
本書は、大澤真幸の他の著作・文章・思考たちの、ひとつの結晶のようなものとして、ある。
そして、深く明晰な思考は、大澤真幸がいだく「長期のテーマ」(一生のテーマ)に、確実に歩みをよせているように、ぼくには見える(大澤は著作『考えるということ』の中で、考えることのテーマを、短期・中期・長期に分けている)。
大澤真幸にとっての切実な問いに向かう思考に沿う仕方で、ぼくたちはいつしか、切実な問いを共有し、その世界にひきこまれる。
冒頭で挙げた本書の目的、「生ける社会学者たちの思考に、消えない火を点すこと」にあるように、本書はそのようにして、ぼくの中に「消えない火」を点火してくれる。
この目的は、大澤真幸の社会学の師である見田宗介の「書くこと」の<精神>をひきついだものだ。
本当によい本は、何かの解決をもたらすこと以上に、読み手の思考に火を点火する。
本書を読み始めてすぐに点火された「消えない火」は、大澤真幸が参照し紹介する数々の文献への興味をぼくに植えつけ、思考の深さと明晰へといざなってくれる。
現代社会を徹底的に相対化し、きたる時代を準備するために、<ほんとうの無神論>へとつづく光のありかを示し、その道筋の四方に飛び散る光のかけらを、ぼくたちの歩みの前につくりながら。