1771年10月20日。
今から246年前の10月20日。
この日付が付された書簡で、ウェルテルはシャルロッテに宛てて、次のように文章を書き出している。
…運命はぼくに苛酷な試練を課そうとするらしい。しかし元気を出そう。気を軽く持っていればどんな場合も切り抜けられる。…まったくちょっとでもいいからぼくがもっと気軽な人間だったら、ぼくはこの世の中で一番果報者なんだろうがね。…ぼくは自分の力と自分の才能に絶望している…。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
よく知られているように、この小説はゲーテの実体験をもとに書かれ、1774年に刊行されている。
主人公ウェルテルの言葉を通じて、ゲーテが語っている。
「近代」という時代の創世記に書かれ、ゲーテというひとりの近代的自我の言葉は、現代においても心に響いてくる。
苛酷な試練の前で気楽になれず、自分の力と才能に絶望する。
現代において、毎日、世界のいたるところで、さまざまな人たちの脳裏でつぶやかれることだ。
「気を軽く持つ」という仕方を語る書籍やトークは、現代日本で、多くの人たちの心をとらえている(ぼくが日本に住んでいるときからその流れが始まっていた)。
しかし、ウェルテルと同じように、「もっと気楽な人間だったら…」と思ったりする。
「自分の力と自分の才能に絶望する」ウェルテルが、そこから切り抜けるために思いついた方法として、「気楽になること」に加えて、次のような方法が語られる。
辛抱が第一だ、辛抱していさえすれば万事が好転するだろう…。われわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。ぼくらの想像力は…われわれ以外のものは全部われわれよりすばらしく見え、誰もわれわれよりは完全なのだというふうに考えがちだ…。ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
「ぼくら自身の創作なんだ」と、ウェルテルは、自我がえがく幻想を明確に認識している。
それにしても、この言葉がこの現代で語られたとしても、まったく違和感がない。
自分と他者との比較の内に「自分」を定め、欠けているものばかりを見てしまう。
ウェルテルがこの書簡を書いてから246年が経過した今も、人びとはこの「幻想」からなかなか逃れることができない。
あるいは、比較から逃れられた人たちも、生きる道ゆきの中で、幾度となく、同じような経験に直面してきている。
「若きウェルテルの悩み」は「誰もの悩み」である。
この「自身の創作」から抜け出すことの方法をいろいろと考えながら、246年前にウェルテルがたどり着いた<地点>に、ぼくはひかれる。
これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や櫂(かい)を使って進む他人よりも先に行けることがあ、と実によく思う。ーそうしてーほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生まれるのだ。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
まっしぐらに進んで行くこと。
ウェルテルは、つまりゲーテは、「まっしぐらに進んで行くこと」に、のりこえてゆく方途を見出している。
どんなに弱くても、どんなに骨が折れても、あるいはのろのろとジグザグに進んだとしても、である。
246年前にゲーテが考えていたこと・感じていたことは、今のぼくたちに「伝わるもの」をもっている。
いろいろな本を読めば読むほどに、ゲーテに限らず、ぼくは「古典作品」にひかれていく。
古典作品の中でも、さらに古典へと誘われていく。
古典作品は、ぼくたちが、現代という時代を「まっしぐらに進んで行く」ためのガイドである。
この時代にたいして<垂直に立ち>ながら、まっしぐらに、ぼくは進んでいきたい。
進み方がのろのろしていても、ジグザグであっても…。
そして、気を軽くもって。