自分を大切に扱うことが、決定的に大切であると、ぼくは思う。
日本社会はしかし「自分」をおさえる磁場を形成しがちだし、逆に個人主義的な社会では「自己中心」的な個人をつくりやすい。
もちろん実際にはそんな簡単に述べることはできない。
個人主義的と言われる社会などを見ても(経験、あるいは著作やインタビューなどで見ても)、人は「他者を喜ばせること・がっかりさせないこと」を起点に行動していたりする。
しかし、日本社会を経験の土台とするぼくが、世界のいろいろな場所で生きてきて、相対的にはやはりそう感じるところがある。
あくまでも表層的な相対性の中で。
「自分を大事に扱うことが成功につながる」という論理を、脳科学者の中野信子が著書『脳はどこまでコントロールできるか?』(KKKベストセラーズ)で書いている。
…なぜ、自分を大事に扱うことが、成功につながるのでしょうか。
大成功といっても、実は小さな信頼の積み重ねだったり、周囲の人といかに良好な人間関係を築けるかというところに左右されているものです。
ここが重要なポイントなのですが、自分を大事にしている人は、ほかの人からも大事にされるのです。逆に、自分を粗末に扱っている人は、他人からも粗末に扱われるようになってしまいます。
中野信子『脳はどこまでコントロールできるか?』KKKベストセラーズ
「自分を大事にしている人は、ほかの人からも大事にされる」というつながりは、論理上も経験上も、なかなかわかりにくい。
中野は、心理学における「割れ窓理論」という理論をひきだしから出して、説明している。
「軽微な犯罪が凶悪な犯罪を生み出すという理論」で、それは、人間の「秩序の乱れに同調してしまう性質」を語っている。
中野信子は、理論について、シンプルな例を挙げている。
自分の目の前に2台の車がある。
1台は手入れが行き届いている車で、もう1台は汚れていてキズや凹みがある車。
この内どちらか一台を棒で思い切り叩いてくださいと言われたら、どちらの車を叩くかは、多くの人が後者を叩くだろうという例である。
もう一つの例は、きれいで美しい道にゴミを投げ捨てることには気が引ける一方、汚くてゴミが落ちているような道であれば「ちょっとくらい捨てても構わない」と思ってしまう例である。
この二つ目の話は、以前どこかで読んだ、スラム街の話をぼくに思い起こさせる。
スラム街を「よくするため」に、ある人は、スラム街をきれいにし、それだけでなく花でうめつくしていったという。
きれいにしただけでなく、そこを花で充たすことで、「秩序の乱れ」を防ぐことになったのだ。
中野信子は、「自分を大切に扱うこと」を生きてきた人物として、世界の大富豪エドモンド・ロスチャイルド男爵の夫人となった女性、ナディーヌ・ロスチャイルドを取り挙げている。
貧しい家庭に生まれ、中学卒業後に工場などで必死に働き、誰もが一目置くような美人でないけれど小劇場の女優であったナディーヌは、エドモンド・ロスチャイルドに出会い、求婚される。
そのナディーヌ・ロスチャイルドは、著書で、次のように語っているという。
「あなたがまず心を配るべきなのは、自分自身です」(前掲書)
「自分を大切に扱うこと」が、すんなりと腑に落ちるまで理解でき、生活のすみずみに落としていければ問題はないのだけれど、現実はなかなかそうすんなりといかない。
時代や社会を駆動する価値観などにより、人は往々にして、下記のいずれかに「偏って」いってしまうように思う。
● 自分だけを大切にすること(自己中心)
● 自分を粗末に扱い、他者だけを大切にすること(他者への自己犠牲的献身)
前者は非難を受けがちであるから、社会の<引力>は後者へと人びとをひきつけてゆく。
「他者を大切にする」ということが、どこからか歪曲して他者を単純に(表面的に)「喜ばす」ことになってしまったりして、いつしか「自己犠牲」になってしまう。
それぞれをつきつめて生きていくと、次のような「反対の状況・事象」をつくりだしているように見える。
自分だけを大切にすることは、そうすることで、実は自分を大切にしない状況を2重につくりだしている。
- 「自分」に境界線をひいてしまうことで、他者から大切にされない「壁」をつくってしまっている
- 他者(誰か)のためになるという歓びの機会を自分自身から奪っている
(自分を大切に扱わず)他者を優先的に大切にすることは、そうすることで、実は他者を大切にしない状況を2重につくりだしている。
- 他者が「あなた」を大切にする機会を奪う
- 他者への献身、つまり自己犠牲的な抑圧を、言葉や行動のどこかで他者に伝えてしまっている
自分を大切にすること、あるいは他者を大切にすることが、その逆の状況・事象をつくりだしてしまうのだ。
この状況をのりこえてゆく方途は「自分も他者も大切にすること」なのだけれど、現実には、やはり「自分自身を大切にすること」からだと、ぼくは思う。
人それぞれの生における「動的な流れ」の中では、どちらが先かは一概には言えないし、その流れ自体が「個人の生の物語」である。
しかし、静的な状況として見れば、「自分自身を、ほんとうに大切にすること」である。
自分自身を大切にすることにより、中野信子が指摘するように、他者からも大切に扱われる。
自分自身を大切にすることにより、自分自身がもつほんとうの「ギフト」を他者に与えてゆくことができる。
そこには、自分自身の「自己犠牲的な献身」という抑圧性はない。
他者の生がひらかれてゆくことは、自分自身にとって、「ほんとうの歓び」となってゆく。
この「ループ」ができてゆくところに、あるいはその「ループ」がつくられる過程に、「意義のある人生」がつくられ、「物語」が生まれてゆくのだと、ぼくは思う。