ホメロス(Homer)の『オデュッセイア』("The Odyssey" )について知ったのはいつのことだったか、正確には思い出せない。
古代ギリシアの吟遊詩人であるホメロス(その人物については多数の説)により伝承されたとされる叙事詩『オデュッセイア』。
トロヤ戦争の終結後、英雄オデュッセウスが帰還途中に漂泊する冒険譚である。
高校生のときに「世界史」の授業で、山川出版社の教科書を読みながら、そこにホメロスと『オデュッセイア』に出会っていたとは思うのだけれど、どちらかと言うと、それは試験用に覚える文字の羅列で、ぼくの想像力は遠くまで飛翔していかなかった。
あるいは、中学生か高校生の時分に、ぼくが読んだ数少ない本にシュリーマン著『古代への情熱』(岩波文庫)がある。
シュリーマンの「夢を追い求める冒険」は、『オデュッセイア』を含むギリシアの物語に彩られていたから、そこでホメロスはぼくの中に、ひとつの徴(しるし)をきざんだのかもしれない。
小さい頃から「古代」にぼくは興味をもっていたけれど、「日々の役に立つ」とは考えることができず、日々の忙しさの中で、「古代への情熱」を忘れていってしまったようだ。
ここ数年、その「古代への情熱」が、いくつもの経路をたどりながら浮上してきて、その過程で、導かれるように、ぼくの前にホメロスが「現れて」きた。
古典的作品などにふれていると、それらの作品のどこかに、ホメロスや『オデュッセイア』の響きが聴こえてくる。
シュリーマン著の『古代への情熱』を再度読んでいると、シュリーマンがトロヤの遺跡をさがす道のりで、ホメロスや『オデュッセイア』がどれほど彼の「物語」にうめこまれているのかを感じることができる。
ボルヘスによるハーヴァード大学ノートン詩学講義の記録である『詩という仕事について』(岩波文庫)において、最初に掲載されている講義「詩という謎」の中で、ボルヘスはホメロスにふれている。
ボルヘスは、「物語り」と題する講義で、『オデュッセイア』の物語りについて、「二通りの読み方」を語っている。
…われわれがそこに見るのは、一つになった二つの物語です。われわれは、それを帰郷の物語として読むことも、冒険譚として読むこともできる。恐らく、これまでに書かれた、あるいは歌われた、それは最良の物語でしょう。
ボルヘス『詩という仕事について』岩波文庫
大澤真幸は、著作『<世界史>の哲学:古代篇』(講談社)の第1章「普遍性をめぐる問い」の最初に、「ホメーロスの魅力という謎」について書いている。
さらに、大澤は「歴史の概念」を考えてゆくなかで、ハンナ・アーレントが「歴史叙述の起源」を、ホメロスに遡っていることにふれている(『憎悪と愛の哲学』角川書店)。
ぼくの生の道ゆきにおいて、ホメロスがその「姿」を現しはじめていたところに、伝記作家のウォルター・アイザックソン(Water Isaacson)が、若者たちに薦める本の一冊として『オデュッセイア』を真っ先に挙げているインタビューを聴く。
このことが直接的な契機となり、ぼくはこの本をいよいよ手に取ることにした。
ウォルター・アイザックソンはまた、『オデュッセイア』は翻訳者によってそれぞれに独特の世界が創りだされていること、その点で「Robert Fagles」の訳書がお薦めであることを述べている。
日本語で読もうかと最初は思いつつ、ぼくはウォルター・アイザックソンをぼくのガイドとしながら、Robert Fagles訳のHomer『The Odyssey』(Penguin Classics)を読むことにした。
原典に近いのは日本語よりも英語だから、そのリズムをより近い形で残しているのではないかと思った。
また、今後、世界のどこかで、誰かと、この本について語るときのことを想像しながら、英語がよいのではと思ったのだ。
この作品は電子書籍よりも、紙の書籍で読みたいと思い、香港にある誠品書店に立ち寄ってみたところ、たまたまRobert Fagles訳のHomer『The Odyssey』が書棚に並んでいる。
ぼくは導かれてきたように、その本を手に取った。
時間をみつけては、時間をかけて、ゆっくりとぼくは読んでいる。
第24歌まであり、第1歌の最初をなんどもくりかえしながら読んでいる。
世界の、歴史の知性たちが、この本に惹かれ続けてきたことが、感覚として、ぼくは「わかる」ような気がしはじめている。
ぼくにとっては、ある程度、生きることの経験をしてきた後に、この書を開くことになった。
この文章を書きながら、ぼくはこんなことを思う。
近代・現代という時代における、社会のすみずみまで貫徹する「合理性」の只中で、多くの人は「生きることの意味」を問う。
社会において合理性が貫徹してゆく中で、情報テクノロジーを中心とした歴史的な時代の転換点に入り、人は「人間とは?」を問う。
その問いへの完全な答えはないけれども、人は問わざるを得ない。
ユバル・ノア・ハラリの著作『Sapiens』と『Homo Deus』は、「人間とは?」という問いへの思考だ。
Homerの『The Odyssey』は、この二つ目の問いにひらかれた作品ではないか、というのが、ぼくのひとつの仮説である。