「移動」の中で考えること、思いつくこと。- シエラレオネと東ティモールで大切にした「移動の思考」。 / by Jun Nakajima

2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。

日本からシエラレオネは、当時はロンドン経由であり、飛行時間はやはり長かった。

シエラレオネ国内でも、よく移動した。

シエラレオネの首都フリータウンに降り立つと、市内へは、なぜかヘリコプターでの移動であった。

フリータウンに事務所本部をもちながら、ボーとコノというところにそれぞれ事務所があった。

それぞれの事務所間は、主に、スタッフが運転してくれる車両などで移動した。

ボー事務所は、リベリア難民の支援の拠点であった。

難民キャンプまでは車で1時間ほどの距離で、難民キャンプに行くときは往復2時間の移動であった。

大雨が降ると、オフロードの泥道は車両の足をつかみ、ときに抜け出せないような状況であった。

ぼくが主に駐在していたのは、コノ事務所。

シエラレオネの東部に位置し、ギニアやリベリアに近くなる。

コノ事務所は、帰還民支援(難民として逃れていたシエラレオネ人が紛争後に戻った村々の支援)として、井戸掘削と衛生教育の支援の拠点であった。

道路は整備されていないから、車両での移動は時間を要した。

支援そのものだけでなく、各ステークホルダー(シエラレオネ地方政府、国連、NGOなど)との会議なども多く、よく移動したことを覚えている。

 

ぼくは、いつのまにか移動に慣れ、「移動の時間と空間」を大切にした。

首都フリータウンはそれなりにコンクリートの道路が整備されていたが、渋滞にはまることもあり、各ドキュメントに目を通すなど車内は仕事の空間であった。

フリータウンをはずれ、ボーやコノに行くとき、あるいはボーやコノにおいては、道が道でないようなところで車両が上下左右に揺れるから、スタッフの人たちと話すことに加え、「考えること」にぼくは徹した。

「移動の時間と空間」は、とても貴重なものであった。

一箇所にとどまって仕事をしているときに「煮詰まってしまった問題・課題」を考えているうちに、ふとアイデアがわいたり、解決策を思いついたりした。

相当に煮詰めていた思考が、ふーっと解き放たれるようにしてひろがり、思考の間隙をぬって、これまで考えていなかったことが浮上する。

ぼくはその内に、「移動の思考」を方法とするようになった。

 

東ティモールに移っても、方法としての「移動の思考」は、ぼくにとってとても大切であった。

首都ディリからコーヒー生産地であるエルメラ県レテフォホまで、整備の行き届いていない道路を通って、2時間から3時間ほどかかる道のりであった。

シエラレオネと異なることのひとつは、東ティモールでのこの移動は、「気温が変わること」であった。

エルメラ県はディリに比べて標高を高くし、レテフォホは涼しいコーヒー生産地だ。

移動と共に気温が変わっていく「移動の時間と空間」の中で、スタッフが運転してくれる車両の助手席に座りながら、ぼくはいろいろなことを考えた。

煮詰まっている問題・課題はもちろんのこと、組織マネジメント、新しいプロジェクト、プロジェクトのプロポーザルの内容と構成、ホームページ用の文章、スケジュールなどなど、「移動の時間と空間」をぼくは思考の方法として活用した。

さらに、ディリとエルメラ県をつなぐ道路で、知り合いなどと車両でよくすれちがうことがあった。

他の国際NGOの人たちであったり、東ティモール政府の人たちであったりと、さまざまであった。

ときに、互いに車両を降りて、仕事の話をしたり、互いを励ましあったりと、移動の道程は特別なものとなった。

車両を降りたときに、あたり一面にひろがる木々たちがつくる静寂が、まだぼくの記憶に鮮明に残っている。

 

シエラレオネや東ティモールにおいて「移動の時間と空間」はぼくにとってとても大切な時間と空間であったのだけれども、掘り下げてゆくと、ぼくたちはいつも<時間と空間の移動>の中に在る。

この反転を言葉の綾だけでなく、言葉の内実を生きるところにまで生ききることに、「移動の思考」だけではなく<思考の移動>がひらけてくるように、ぼくは思う。