まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。
バックパッカーでアジアを旅しているときに目にした、安宿に残された日本語書籍。
赴任先で、同僚が残していった日本語書籍や出張者が差し入れで持ってきてくれた日本語書籍や日本語雑誌。
異国で、日本語書籍を販売している書店で、限定された書籍の中で出会う日本語書籍。
世の中に無数にある日本語の本の中から、偶然に、それらの本に出会う。
インターネットが普及していない時代であったから、さらに、それは特別なものとして感じられた。
今の時代は、インターネットが普及し、電子書籍が普及し、どこにいても、大体どんな書籍も、クリックボタンを押すだけで手にいれることができる。
また、ハードコピーの書籍も、オンラインで購入して、日本からアジアの近いところであれば数日で到着してしまう。
この状況が切り拓いてきた、あるいは切り拓いてゆく「世界」から、ぼくたちはほんとうに多くの恩恵を受けることができる。
でも心のどこかで、不便であった「昔」を懐かしく思い、便利さにたいして逆につまらなさのようなことを感じることがある。
だからといって、「昔」に戻るわけではないけれど、あのような「特別さ」を今後感じることはないだろうと思っていたところで、ちょっとしたことだけれど、あの特別な気持ちを呼び覚ますような出来事にでくわすことになった。
先日、作家の辺見庸のことをブログに書いた。
辺見庸の文章に出会ったのは大学時代であった。
辺見庸を「知る」ようになったのは、食から世界の辺境にまでくいこんでゆくノンフィクションの著作『もの食う人びと』であった。
この著作に出会ったのは、アジアへの一人旅をはじめた時期であったから、なおさら、ぼくの深いところに届いた。
ぼくが世界に仕事と生活の場をうつしてから、ぼくは辺見庸の作品から何故か遠ざかっていた。
ところが、ここ数年、また彼の作品世界に足を踏み入れていた。
ブログではそんなことを書いた。
その「声」がどこかで届くように、ぼくは「小さな出来事」に出くわす。
ここ香港で、「小さなリーディング・ルーム」の棚で、著作『もの食う人びと』に再会したのだ。
中国語の本が並ぶ中で、二冊だけ、日本語の本が並んでいる。
その内の一冊が、『もの食う人びと』であった。
まさかの再会であった。
確率論で言えば、その確率は果てしなくゼロに近いだろう。
日本人が寄贈したのかもしれないけれど、それでも、無限にある日本語書籍の中で、この一冊が確かにそこにたたずんでいたのだ。
ぼくは、その「確かさ」を確かめるように、『もの食う人びと』を手に取る。
ページを開き、本の最初に綴じられたカラー写真を確かめる。
確かに、そこには、『もの食う人びと』があった。
これを読んだ人は、ここ香港で、この本をどのように読んだのだろうか、と想像する。
なぜこの本を選び、人生のどのような旅路で、ここ香港で、どのようにこの本を読み、何を考えていたのか。
20年以上を経て再会する『もの食う人びと』の本に、日本を離れ、あるいは日本語が当たり前にある空間を離れたときに感じるちょっとした不安の中で、たまたま出会う日本語書籍に感じた、あの「特別な気持ち」がぼくの中で呼び覚まされる。
取るに足らない、ちょっとした出来事だけれど、ぼくにとっては大切なものを再び拾うような出来事であった。
それにしても、なぜ『もの食う人びと』が、ぼくの目の前に、あのような形で再び姿を現したのだろうか。
それも、ここ香港で。