「Eudaimonia」
これは古代ギリシアの言葉であり、いわゆる「Happiness」に代わるものとして、「The School of Life」の短編(3分28秒)の動画作品『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』で提示されている言葉だ。
この言葉は古代ギリシアにおいて、特にプラトンとアリストテレスが語っていたものとされる。
一般的に使われる人生の目的や様々な論の前提には「Happiness(幸福)」や「幸福の追求」があるのだけれど、その欠点を補うもの・代替されるものとして、「Eudaimonia」があるという。
この「翻訳語」としては、何があてられるか?
この言葉にはいろいろな「訳」があてられてきたけれど、The School of LifeのAlain de Bottonは、ベストな訳として「fulfilment」(充実)をあてている。
そして、HappinessとFulfilmentを区別するのは「痛み(pain)」だと語る。
前者がむずかしいのは、ぼくたちの生きることの日々は、ハッピーであったり、ハッピーでなかったりと上下がはげしいのだ。
ただし、後者の「Eudaimonia (fulfilment、充実)」は、そのような「上下」をひっくるめて語ることができる。
仕事でプロフェッショナルな才能を適切に模索してゆくこと、家事をこなしてゆくこと、人間関係を維持してゆくこと、新しいビジネスを起こすことなど、これらのどれも、日々においてぼくたちをいつも陽気にしてくれるようなものではないことを、Alain de Bottonは語る。
むしろ、それらはチャレンジであり、ぼくたちはときに疲労困憊し、ぼくたちをきずつけることだってある。
でも、それでも、終わりから振り返ってみれば、それらひとつひとつに価値があったことを思うのが、人というものである。
Eudaimoniaを心にしまうことで、痛みのない存在を目標にするということ、それから機嫌が悪いことにたいして私たち自身を不公平に非難するということを想像することを、私たちはやめることができるのです。
The School of Life『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』(YouTube)(※日本語訳はブログ著者)
社会学者の見田宗介は、初期の著作(修士論文)である『価値意識の理論』(弘文堂)において、「幸福論の二つの系譜」を記している。
幸福論の二つの系譜とは、次の二つである。
- 欲求の満足としての幸福
- 活動にともなう充実感としての幸福
The School of LifeのAlain de Bottonが語る用語にあわせていけば、次のように記しておくことができる。
- 欲求の満足としての幸福:Happiness
- 活動にともなう充実感としての幸福:Eudaimonia (fulfilment)
現在の社会科学の理論や評価や指標の多くは、いまだに前者の「欲求の満足」をその前提としている。
経済学の諸流派もそうであるのだけれど、しかし経済学者アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」という評価指標(「生き方の幅」を評価)は、経済成長指標を捕捉・代替するものとして提示され、実際に国連開発計画(UNDP)で使用されてきたのである。
センの理論は、実は、前述のアリストテレスに源流をもっている。
アリストテレスは、『二コマコス倫理学』の中で、「幸福は活動である」と述べており、センはその思想をひきつぎながら「潜在能力アプローチ」という強力な理論をつくりだしたのだ。
見田宗介も、アリストテレスを筆頭に、思想家たちの言葉を引用している。
アリストテレスは「幸福は活動である」といい、モンテーニュは「われわれが知っているすべての快楽はそれを追求すること自身が快楽である」とのべ、またパスカルは「なぜ人は、獲物よりも狩を好むか?」と問いかけている。スピノザもまた、「幸福は目標そのものなのでなく、能力の増大という経験に付随するもの」であるとしている。ラッセルやデューイをはじめ、幸福や人生の目的について考えた多くの哲学者や作家や詩人は、それが行為のかなたにではなく、行為の過程それじたいのうちに内在することを指摘している。
見田宗介『価値意識の理論』(弘文堂、1966年)
それでも、歴史は、人びとの多くが「欲求としての満足=Happiness」を目的としてきたことを語る。
それはなぜだろうかという問いが当然のことながらわきあがる。
説明や仮説や理由はいろいろに考えられるけれど、「欲求としての満足」の中毒性と共に、近代という時代の「合理化」という原理に接合しやすいものであったのだと、ぼくは思う。
その近代という時代が次の時代に向かう大きな転換点において、幸福の二つの系譜の内の「充実感としての幸福」に再び光があたりはじめている。
この「充実感としての幸福」の中に、ぼくの目指すところの、人びとの目の輝きに彩られる生が現出する。