大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。
「世界地図」は、実際の「世界」ではなく、ぼくが生まれてから自分のなかに築きあげてきた「世界」だ。
世の中はこうであるとか、社会はこうであるとか、人はこうであるとか、である。
脳は日々シミュレーションをくりかえしながら、「世界」をつくりだしていく。
生きていくうえでは、築きあげていく「世界」は必要だ。
この世界で日々、「安全」に生きていくためのプログラムだから。
でも、ぼくはじぶんで築きあげた「世界」に、生き苦しさを感じてしまっていた。
ぼくは「海外への憧れ」という、ひとつの直感をたよりに、大学の1年目から「旅」をくりかえしていくことになる。
1994年の中国上海にはじまり、香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していく。
1996年には、大学を休学して、ニュージーランドで暮らす。
旅や海外生活はそれ自体が楽しいもの(たいへんだけれど楽しいもの)でありながら、「方法としての旅」でもあった。
じぶんの脳がシミュレーションをくりかえして築きあげてきた「世界」に<裂け目>をいれていくための、「方法としての旅」。
それは、「視点」の「点」を、「じぶんの世界」にあらたにプロットしていくプログラミングだ。
例えば、ニュージーランドにいたときに、ぼくは初めて、海外で映画館にいく。
確か映画は『12 Monkeys』で、「映画館で日本語字幕なしの映画を観る」という<点>を打つ。
映画のチケットは、ぼくの記憶では当時ニュージーランドドルで6ドルくらいであったから、とても安かったことに、ぼくは驚いたものだ。
日本では「1800円」が「あたりまえ」だと思っていたから、そうではない<点>をぼくはプロットすることになる。
これまでただの<点>であったものが、もうひとつの<点>ができる。
そうして、点と点をつなぐ線分ができる。
そのようにして、視点の<点>をふやしながら、そしてそれは増殖していく。
このことは、別に日本でもできるし、本やテレビなどで見てもできるといえばできるのだけれど、「体験」によって打たれる<点>、とくに今いる環境や文化から遠く離れた「体験」によって打たれる<点>は鮮烈だ。
その<点>は、これまでに穿たれていた<点>よりもはるか遠くに、打たれる。
ベトナムを旅しながら、屋台で食事をとり、ビールを注文する。
缶のビールは冷えていなくて、でも氷の入ったグラスと共に出される。
氷は衛生上危ないこともあるので気をつけるべきものだけれど、当時は氷を安全性を身振り手振りで店員さんに確かめながら、ぼくは氷で冷たくなるビールを試した記憶がある。
ぼくの「世界」に、新たな<点>が打たれる。
そのようにして増殖していく<点>は、線分になり、さらに<面>になり、さらには<立体>になる。
視野がひろがり、パースペクティブが変わっていく。
そのようにして、ぼくのなかの「世界」はひろがり、ひろがるだけでなく、「ありうる世界」という柔軟性を獲得していく。
これまで「世界はこうだ」と思っていたところに、裂け目ができる。
ある面で凝固していたシミュレーションがふたたび作動していく。
「方法としての旅」ということを考えるときに、ぼくは、この<点>の大切さを、今では思う。
「世界」はぼくたちが思っているほど、狭くはない。
ひろがる<世界>を、ぼくたちの狭い「世界」に閉じ込めないこと。
今日も、だから、<点>をひとつひとつ打つ。