整体の創始者と言われる故・野口晴哉。
野口晴哉思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。
『大絃小絃』(全生社)という著作(エッセイ集)の表紙に、「太古の始めから風は吹いていた…」ではじまる、「風」と題された詩的な手書きの文章が掲げられている。
この文章は、中国の仏教書である『碧巖録』と向き合った著作『碧巌ところどころ』に編集されている、「風」という一群の論考のひとつとしても収められている。
その一群の論考には、近代医術の宗祖であるヒポクラテスのこと、能の芸術論などと共に、「風」と題されるもう一つの文章が最後に置かれている。
風
先づ動くことだ
形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを
見て 動いているものを 感ずるに至る
動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す
竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も
飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する
ーー天地一つの風に包まる
先づ動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣りを動かすことだ
それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなって
ゆく これが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くも
のあれば 必ず外に現われ 現れたものは 必ず動きを発する
自分自身 動き出すことが その第一歩だ
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
「風」ということで表象されることに魅かれるぼくは、野口晴哉のこの文章に触発される。
人は変わることができるか/人は変われるか、組織を変えることはできるか/組織は変われるか、社会を変えることはできるか/社会は変われるか。
ぼくたちは、日々の生活をしながら、仕事をしながら、人との関係の網のなかで生きながら、そのように自問する。
それらの問いは、ぼくのなかでも、国際協力・国際支援の場を通じて、また人事労務という場を通じて、いつもこだましてきた。
体を知り尽くした野口晴哉は、「誰の裡にも風を起こす力はある」と、書いている。
それは、意志とか意識などよりも手前のところで、ぼくたちの身体に流れる力、あるいは身体という力と向き合いつづけてきた野口晴哉からわきあがってくる言葉だ。
野口晴哉は、風を超える<風>、つまり<動き>に敏感な、整体の実践者であり思想家であった。
「誰の裡にも…ある」力を起こすために、「先づ動くことだ」と、野口晴哉はくりかえし伝えている。
それも、「自分自身動き出すこと」が第一歩だと、最後にも同じメッセージを異なる言葉で加えている。
ぼくたちの周りの、家族や友人、組織、コミュニティなどに、「風」が吹いていないのであれば、やはり「自分自身動き出すこと」からはじめることである。
風を起こす内的な力を起こし、風を味方につけるのだ。
「動かないものを見て、動かせないと思ってはいけない。裡に動くものあれば必ず外に現われ、現れたものは必ず動きを発する」と、野口晴哉の身体を通じた深い知恵は、ぼくたちに教えてくれている。
風のように動き、風として動くこと。
野口晴哉の言葉が、いつものように、あの存在の力をもって、ぼくに迫ってくる。
「先づ動くことだ」