国際協力・国際支援という「領域」に踏み込んだこと、それからそれに最初の仕事として関わったということの、その底流には、さまざまなことがあったと、今では思う。
「底流」とここで言うのは、ぼくの内的な側面である。
外部的なことで言えば、世界では貧困問題や戦争・紛争が続いている。
そのような外的な状況の中で、世界を少しでもよいところにしたい、必要としている人たちに手をさしのべたいという気持ちがわき起こる。
それらの気持ちはぼくを牽引するものでもあったけれど、「底流」はさらに、ぼくの中の奥深くにあるものだ。
それは、ぼくが生きることの「テーマ」とも言える。
「本」にたとえて言えば、世界を少しでもよいところにしたい、というのが「章」であるとするなら、底流に流れるテーマは本全体に照準する。
国際協力・国際支援は、ぼくの底流に流れるテーマと接合する<場>であったように思う。
あるいは、底流に流れるテーマがもっとも露わな仕方で現出し、ぼくをそのテーマの中に日々投げ落としていくような<場>である。
国際協力・国際支援の「現場」は、一般に思われるほど「協力・支援の美しい形と内実」にみちあふれた場ではない。
もちろん、そのような「美しい形と内実」を目指してはいるし、ときに、幸福な仕方で、そのようなことが起こったりする。
でも、あたりまえだけれど、日々の仕事においては苦悩と矛盾と困難に直面してゆく。
それら苦悩と矛盾と困難の中にすっぽりと入って、道をきりひらいていかなければならない。
ぼくは、その中に、ぼくの「底流に流れるテーマ」がもっとも現出されるような現実に直面してゆくことになる。
「底流に流れるテーマ」のひとつは、ぼくのブログのテーマでもあるけれど、「生きる」ということ。
生きるということは何であろうか。
紛争や貧困などの現実に身体でふれながら、ぼくは心身ぜんたいで考える。
それから「しあわせとは何であろうか」という問いが、こだましてきた。
国際協力・国際支援は、プロジェクトを通じて「結果」をうみだしていくことになるのだけれど、その先にぼくたちは何を目指しているのか。
それは人びとの「しあわせ」であるのだけれど、そもそも「しあわせ」とは何だろうか。
そして、ぼくたちはどのようにしたらよりよく生きていけるのか、歓びにみちた生をどのようにおくることができるのか。
このような「底流に流れるテーマ」が日々の中で問われる。
圧倒的な仕事量で目の前の仕事に手一杯になりながらも、問いは外部から、そしてぼくの底流の方から、いやおうがなくやってくる。
国際協力・国際支援は、ぼくにとっては(あくまでもぼくにとってはということだけれど)、「底流に流れるテーマ」がもっとも露わに現出するような<場>であった。
だから、苦悩と矛盾と困難に日々圧倒されながらも、情熱の炎を消すことなく、全身全霊で立ち向かうことができたのだろうと、ぼくは思う。