「英語」は習ったままにしないことである。
「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。
使わないことの言い訳ができないほどに、垣根が低い。
ぼくが英語を習い始めた30年程前は、英語を使う環境を自発的に見つけ作っていく必要があった。
「英語を使って話す」ことが必要だと言われたけれど、じぶんの周りを見回したところですぐには見つからない。
そのような環境を見つけていく必要があった。
ぼくは結局のところ、教科書や参考書と向き合い、ときおり洋楽の歌詞の世界に入りこんだ。
でも、今は事情はまったくと言ってよいほど異なる。
「現実の世界」においては、日本にいても、世界いろいろなところからくる人たちに出会うことができる。
そして何よりも、「インターネットの世界」が状況を圧倒的に変えてしまった。
そんなことは言われなくても誰もが思うところだが、ぼくは繰り返し、そのことを書いておきたい。
「インターネットの世界」に誰もがつながりながら、しかし、多くの人たちはそのヴァーチャルな世界の一部にしか訪れていない、ふれていない。
「日本語のインターネット世界」に閉じこもってしまうのだ。
英語検索によってインターネット世界をひらくだけでも、視界は一気にひらける。
東浩紀が、著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)の中で、検索の言語を変えてみるだけで異なる世界がひろがることにふれている。
検索ワードを日本語だけに限定すると、検索エンジンは「日本語のインターネット世界」に人を案内する。
それを他の言語に変えると、そこにはまったくといってよいほどに異なるインターネット世界がひろがっている。
それも、どこか遠くにあるのではなく、すぐそこに、ひろがっている。
「検索ワード」はどのような検索ワードをタイプするかで検索のパフォーマンスに影響するという意味で、検索ワードの選び方はスキルのひとつだけれど、そこで「言語を変える」ということも身につけたいところだ。
英語によるインターネットの世界は圧倒的な「空間」であるけれど、検索などで訪れるだけでなく、もう一歩すすんでおきたいところだ。
楽しむだけでなく、インターネットがどのように使われているのかを見ておくことが、もう一歩である。
例えば、無料の「ニュースレター」でよいので、配信登録をしてみる。
配信登録で使われる英語は初歩的なものだ。
ニュースレターがどのような内容で、どのように送られてくるのか、どのくらいの頻度で、どのタイミングに配信されるかなど、学ぶべきところばかりだ。
マーケティングオートメーションなどの仕組みなども、興味深い。
いろいろな実践や試みが、圧倒的に早いスピードで展開されているのだ。
このような学びが、今では、手元の携帯電話だけでできてしまう。
「英語」は習ったままにしないこと。
それは、異なる世界、「英語のインターネット空間」という、果てしないひろい世界への「鍵」である。
いずれは、翻訳アプリや翻訳機能の進歩により、言語を習わなくてももっとシームレスに入っていける空間がひらけていくけれど、今ここに「鍵」があるのだから、使わない手はない。