🤳 by Jun Nakajima
10代から20代にかけての「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。
「若い人に贈る一冊」(日本語)を、ぼくが選ぶとしたら、ぼくは迷わず、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫、あるいは、岩波書店『真木悠介著作集 I』)を手にとる。
ぼくの生きる空間にはいつも手に届くところに、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)がある。
20年以上前に、東京の大学に通っていたときに、ぼくはこの本に出会った。
「世界の見え方」が、言葉通り、まさに入れ替わってゆくような感覚を覚えたことを、ぼくは今でも覚えている。
ぼくは新宿駅の埼京線乗り場へと続く階段を昇りながら、目の前の見晴らしがまったく変わっていくような感覚を得たのだ。
もともとの本は、今から40年も前の1977年に出版されたものだ。
その思想は40年を経た今でもまったく古くならず、むしろ、今だからこそ活きてくるような本質に溢れている。
ぼくはいつものように『気流の鳴る音』を手に取る。
東京にいたときはもちろんのこと、西アフリカのシエラレオネにいたときも、東ティモールにいたときも、それからここ香港でも、いつもそうしてきたように、ぼくは『気流の鳴る音』を手に取る。
そうして、普段とは違う頁をひらき、気に導かれるように、今回は第一章の最初の導入部を読む。
真木悠介が、序章でふれたカルロス・カスタネダの一連の著作を読み取る作業を開始していく導入部である。
序章でふれたカルロス・カスタネダの四部作は、ドン・ファンとドン・ヘナロという二人のメキシコ・インディオをとおして、おどろくべき明晰さと目もくらむような美しさの世界にわれわれをみちびいてゆく。つぎにこのシリーズをよもう。しかし目的はあくまでも、これらのフィールド・ノートから文化人類学上の知識をえたりすることではなく、われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁として、これらインディオの世界と出会うことにある。
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
この導入につづく主題の説明は、はじめて読んだときには、まったくわからなかったところだ。
…くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる本書の文体は、翼をひろげて悠然と天空を旋回する印象を私に与える。その旋回する主題の空間の子午線と卯酉線(ぼうゆうせん)とは、私のイメージの中でつぎの二つの軸から成っている。一つはいわば、「世界」からの超越と内在、あるいは彼岸化と此岸化の軸。一つはいわば<世界>からの超越と内在、あるいは主体化と融即化の軸。…
「世界」と<世界>のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、<世界>そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、<世界>の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満天の星を宿すように、「世界」は<世界>のすべてを映す。球面のどこまでいっても涯がなく、しかもとじられているように、「世界」も涯がない。それは「世界」が唯一の<世界>だからではなく、「世界」が日常生活の中で、自己完結しているからである。
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
真木悠介は、「くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる」と書いている。
ここではそれは、カルロス・カスタネダの文体のことなのだけれど、それはまた「生きるという旅路」において、いくどもたちもどってくるような主題である。
ぼくは、「翼をひろげて悠然と天空を旋回」しながら、いくどもいくども、この主題にたちもどっては『気流の鳴る音』の本をひらく。
あるいは、『気流の鳴る音』をひらいて、読んでいる内に、この主題にたちもどっていることに気づくという具合だ。
この「いくどもいくどもたちもどる」思想ということは、真木悠介が本書で目指していることそのものであることを、ぼくたちは「あとがき」で知ることになる。
ここで追求しようとしたことは、思想のひとつのスタイルを確立することだった。生活のうちに内化し、しかしけっして溶解してしまうのではなく、生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけるような具体的な生成力をもった骨髄としての思想、生きられたイメージをとおして論理を展開する思想。それは解放のためのたたかいは必ずそれ自体として解放でなければならない、という、以前の仕事の結論と呼応するものだ。…
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
ぼくが言えることは、『気流の鳴る音』に出会ってから20年以上が経過してゆく中で、それは確かに、ぼくの「生活のうちに内化」し、また「生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけ」てきたこと。
まさに「具体的な生成力をもった骨髄の思想」である。
思想とは、生き方のことだ。
『気流の鳴る音』を手に取り、ぼくは第一章の導入を読み始める。
「くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる…」という文章の流れに心身をかさねながら、ぼくはいつになく、納得してしまう。
ぼくはまたおなじ主題にもどってきている。
でもまったくおなじ戻り方ではなく、きっと、いっそうの高みにおいて。
ぼくの生き方の中で、なにかが生成しながら。
そのことを考えていたときに、ぼくは思ったのだ。
「若い人に贈る一冊」として選ぶのなら、ぼくはやはり真木悠介の名著『気流の鳴る音』を選ぶ、と。
『気流の鳴る音』は、決して、若い人たちに「有効な方法」を伝えるのでもないし、生き方の「回答」を与えるものでもない。
それは、世界の感性たちの中で生成してゆく力の源泉となる<種子としての言葉たち>だ。
だから今も決して古びることのない、この本が、ぼくが選ぶ一冊である。