NewsPicksのプレミアム(有料)で読むことのできるシリーズの中に(読みごたえのあるシリーズばかりで読みきれていない)、「ユダヤ最強説」という特集があり、全10回にわたって、ユダヤ人の強さを掘り下げている。
その最終回に、『私家版・ユダヤ文化論』の著者である内田樹が、「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」について語っている。
上述の著書を読んだときには一気に読んでしまって、ぼくのフィルターにかからなかったのだけれど、この特集で、内田樹は「ユダヤ的知性」をわかりやすい言葉で、しかしその本質をさぐりあてている。
「ユダヤ的知性」を、内田樹は、ユダヤ人固有の「頭の使い方」として語っている。
「私家版・ユダヤ文化論」という本に書きましたけれど、ユダヤ的知性の特徴を一言で言うと、「最終的な解を求めない」ということです。
解答することが困難な問いに安易な解を与えずに、そのまま宙吊りにしておく。そんなことを続けていると、「答えのない問い」だけが無限に増殖してゆくことになりますけれど、その未決状態に耐える。それがユダヤ的知性の働きです。まことにストレスフルな生き方なのです。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
この「ユダヤ的知性」がユダヤ教的なところにかかわることを解説しながらも、内田樹は次のように指摘している。
繰り返し言いますけれど、ユダヤ人たちのものの考え方は、教義というよりはむしろ「家風」です。子どもの頃から周りの大人たちから、立ち居ふるまい、箸の上げ下ろしについてうるさく言われてきて身体化したようなものです。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
身体化された「頭の使い方」は、今の時代をきりひらく上で、とても魅力的に、ぼくにはうつる。
「最終的な解を求めない」というスタイルにかんれんして、内田樹はいくつかの例をあげている。
例えば、ユダヤ人に向かって「…ですか?」と聞くと、「どうして君はそれを訊ねるのか?」と聞き返すことで、問いの文脈を前景化しようとするという。
問いに対して問いで答えるということをやると、日本人同士であればケンカになってしまうだろうと指摘しながら、ユダヤ人はそこから対話を盛り上げ、論争の次数をあげていくことが、身についていることを、内田樹は説明している。
ユダヤ人は何をしても、「なぜ自分はこんなことをするのか」について考え始める。必ずメタレベルに上げてしまう。…
…つねに論争の次数を上げていって、違う視点から、より高い視点から、今の自分たちの思考や感情を説明しようとする。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
ある意味、「好奇心」が、ユダヤ的知性の作法にくみこまれているようだ。
なお、内田樹は、くりかえし、これは宗教や教義ではなく、宗教が形骸化したあとでも残る作法であることをつけくわえている。
質問の背景を前景化したり、思考をメタレベルに上げていったり、議論の次数を上げていくことは、コンサルタントの作法とも通じる。
そのような作法が、社会のなかにうめこまれていることに、ぼくは感心してしまうと同時に、ユダヤ人の強さを垣間見たような気持ちがわきあがる。
ちなみに、コンサルタントや経営者が参照する有名なピーター・ドラッカーも、ユダヤ系である。
人工知能の行く末など未来はどうなるかはわからないけれど、少なくとも今においては、「考えること」はとても大切だ。
ぼくたちが「ユダヤ的知性」に学ぶところは多い。
久しぶりに、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)をひらこうと、ぼくは思う。
「ユダヤ的知性」の視点でよみとき、学ぶために。