「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」(真木悠介)。- 月あかりに照らされる「近代文明の存立」。 / by Jun Nakajima


香港の夜空で月あかりがさらにあかりを増していくなかで、「自然」という大きな視野はぼくの視界をひろげてくれることを思う。

じぶんという存在を、一気に相対化してくれる。

その大きな視界から、人間の社会をみつめる。

 

社会学者である真木悠介のどこまでもひろがり、どこまでも深い視界・視野と、展開される論理は、人間社会、その近代文明を「大きく太い線」でとらえている。

「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」という、大きく太い線である。

真木悠介の著作のなかで、この太い線がより明確な形で提示されたのは、名著『時間の比較社会学』においてである。

 

…われわれの<時間の比較社会学>の問題意識と主導的な仮説を整理しておくと、つぎのようになる。
 第一に、虚無化してゆく不可逆性としての時間の観念は、萌芽的にはオリエント、とりわけヘブライズムといった、最古の反自然主義的な文化と社会の中で発生し、展開してきたものではないか。
 第二に、抽象的に無限化されうる等質的な量としての時間の観念は、萌芽的にはインダスその他の、高度にはヘレニズムのような、都市化された(集合態的な)社会形態の中で発生し、展開してきたものではないか。
 そして西欧にその起源を有する近代文明は、この二つの文明史的な展開の統合の帰結として存立するのではないか。
 理論的に抽象化していえば、第一の契機は、自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。第二の契機は、共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店

 

途上国の発展・開発の現代的課題(よって先進国の発展・開発の歴史)を学び、疑問を抱きつつ、「発展・開発とは何か」という原的な問題を追い求めていた20年程前に、ぼくは、真木悠介の、この「大きく太い線」で引かれた視界・視野を手に入れた。

そして、この太い線は、ぼくたちが生きる世界の巨視的な把握のためにも、とても大切で、かつ有効なものであると、ぼくは思う。

今も「自然からの」あるいは「共同態からの」<自立>のたたかいはまだつづき、そしてそれらからの<疎外>がもたらす人と社会における問題に、ぼくたちは日々直面し、あるいはそれらを目にする。

ただし、自然からの、あるいは共同態からの自立は、人びとの生活とその社会を解き放ってきたものでもある。

太い線による巨視的な「近代文明の存立」の把握は、正の面と負の面双方をみはるかしながら、現代をよりよく生き、これからの未来を構想しひらいていくための、基礎・基盤である。

 

自然の限りない大きさにさらされると、ぼくの視界は一気に拡大し、たとえば「近代文明」を視野におさめようとしたりする。

ぼくが今立っている「地点」は、人や社会が、自然から、また共同態から自立してきたことの帰結なのだ。

異常なほどに光をはなつ月あかりに、古代の人たちは畏れ・恐れを感じ、その中に埋没してしまっていただろう。

現代のぼくたちは、自然から「自立」し、そんな月に不気味なものは感じない。

しかし「自立」でありながら、自然からの「疎外」として、うしなってきたものもある。

自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは今さしかかっているのだと、ぼくは思う。

自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは、どのような世界をつくりだしていくのか、月あかりのなかで、そんなことをかんがえる。