「世界で生ききる」ということをブログのタイトルの一部に、ぼくはもりこんでいる。
言葉に堅さ・硬さのようなものが残るものの、これからの時代をきりひらいていく方向性を感覚しながら、書いた言葉である。
とくに「生ききる」という言葉をアンテナとしている。
整体の創始者といわれる野口晴哉が「全生」ということをその思想のコアにしていることは知っていたけれど、例えば、次のような野口晴哉の言葉を、ぼくは最近見つけた。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
野口の焦点は、溌剌と生きること、「生ききる」こと、彼が言う「全生」ということにある。
…象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基づいているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
この如く、人間が人間感覚からのみ推して ものを対立させているなかに宇宙的無限感を得たものがいたなら、こう言うだろう。
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
ここに見られるように、野口晴哉の視点は、多くの知の巨人たちと同じく(「巨人」という使い方自体、野口は「人間的な有限感覚」だと言い放つだろうけれど)、時間と空間の「幅」がはてしなくひろい。
野口晴哉の思想を深いところで支えているのは、この時間と空間の感覚だ。
時間は人間的な有限感覚に限らず、空間も宇宙にまでひろがっていく。
それでいながら、野口晴哉の「実践」は、この人間の身体に向けられている。
この「視野・視点の自由自在さ」が、野口晴哉の屹立する思想を支えている。
野口晴哉がもっとも魅かれてきた書、『碧巌録』を野口流に読み解きながら、野口晴哉の思想と実践は、『碧巌録』におさまりきらないように、ぼくには見える。
一秒間で地球を八回めぐる光の速さで、何十億年かかる距離を容れて尚あまりある宇宙も、その宇宙に浮かぶゴミの如き地球も、その地球に生えたかびの如き人間も、その人間の眼にも見えぬ最近の類も、自然の存在であり、ある可くしてある全なる相である。宇宙の運行と等しく我らが面前にある事実、我らが裡に行われる動き、我らが一呼一呼 一挙手一投足も 自然のはたらきたらざるはない。このことを見つけ出し 身に体した人は 自由自在なる宇宙人だ。
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
野口晴哉の思想と実践は、そこにはいりこめばはいりこむほどに、異なる相をぼくたちにひらいてくれる。
「生ききる」ということ、「全生」を求め、そこに生きてきた野口晴哉。
「自由自在なる宇宙人」という視野・視点のひろがりの中で、いまここの一点に集注してゆく、その自由さと型のなかに、野口晴哉の力強さはある。
ぼくがかかげる「Global Citizen」という諸相など、一気にふきとばされてしまうほどの強さだ。
でも、実を言うと「Global Citizen」の意味合いのなかには、<宇宙人>(宇宙に生きる人)としての諸相がふくまれている。
変にきこえるかもしれないけれど、ほんとうにそうかんがえながら、ぼくは野口晴哉の思想と実践に、真摯に耳を傾けている。