「ほんとう」という言葉からはじまる旅路:「ほんとうの」と「ほんとうに」。- 竹田青嗣、宮沢賢治、そして見田宗介。 / by Jun Nakajima


ぼくたちは、日々の会話や書くもののなかで、「ほんとう」という言葉を使う。

小さい頃から、ぼくは、よくこの言葉を使っていたと思う。

「ほんとう」の反対は「うそ」というような対置をされると、ぼくたちは他者の言うことを信じていないように聞こえてしまう。

でも、ぼくの感覚では、「ほんとうーうそ」というシンプルな対置だけにおさまらない構図のなかで、その言葉が発せられてきたことを感じていた。

そのことを正面から見つめようとしたのは、やはり、社会学者の見田宗介の著作に触発されてきたところが大きい。

 

見田宗介の仕事のなかで、「ほんとう」ということを論じている対象としては、哲学者である竹田青嗣と、そして宮沢賢治が挙げられる。

音楽家の井上陽水論を展開した竹田青嗣の著作『陽水の快楽』(ちくま文庫)で、見田宗介は鮮烈な「解説」を書いていて、その解説が書かれる前の「前身」的な解説として、論壇時評に次のように書いている。

 

 竹田の文章が要所で放つ「ほんとうに」という副詞は、書くことの外部からくる息づかいのように、彼の論理の展開の、生きられる明証性のようなものを主張している。宮沢賢治は「ほんとうの」しあわせとか考えとか世界を求めた。竹田の断念は、<真実>を方法の場所に、形容詞でなく副詞の場所にまでしずめている。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

見田宗介は、「ほんとう」ということで示されるものを、「ほんとうの」という形容詞、それから「ほんとうに」という副詞というように切断線を引いて、かんがえている。

「ほんとう」という言葉に表象される心象は、ぼくの個人史だけに固有のものではなく、それが時代の困難さをあらわしていることを、ぼくはここにみる。

竹田青嗣の展開する陽水論と見田宗介の鮮烈な読みとりについては、以前にもブログで触れたけれど、またいずれ書きたいと思う。

むしろ、ぼくをひきつけてやまないのは、「ほんとうの」という形容詞である。

 

見田宗介が吉本隆明の著作『宮沢賢治』に応答するように書いた文章、「性現象と宗教現象ー自我の地平線」は、いっそうの深みにおいて、宮沢賢治が追い求めた「ほんとうのもの」をスリリングに論じている。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を素材に、主人公ジョバンニと宮沢賢治を重ね合わせながら、見田宗介(真木悠介)は性と宗教を明晰に論じている。

銀河鉄道に乗るジョバンニは、その旅路で乗客たちに出会うけれど、乗客たちは途中で降りていってしまう。

 

 それでもジョバンニはどこでも降りない。銀河鉄道のそれぞれの乗客たちが、それぞれの「ほんとうの神」「ほんとうの天上」の存在するところで降りてしまうのに、いちばんおしまいまで旅をつづけるジョバンニは、地上におりてくる。
 ひとつの宗教を信じることは、いつか行く旅のどこかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ。ジョバンニの切符には行く先がない。ただ「どこまでも行ける切符」だ。 

真木悠介『自我の起原』岩波書店

 

法華経の人であった宮沢賢治を読みときながら、見田宗介は宮沢賢治が<歩きつづけた方向性>を、次のように書いている。

 

 性が何度も人を裏切るものであることと同じに、宗教もまた、何度でも人を裏切る。宗教に裏切られる毎に、賢治の資質は、宗教を否定する方向にでなく、<ほんとうの>宗教を求めるという方向に賢治を向かわせた。
 人が<ほんとうのもの>を求めるということをどこかでやめてしまう仕方は、二つある。宗教の駅と、反宗教の駅だ。宗教の駅は、<ほんとうのもの>はここにあるのだ、これ以上求めることはないのだという仕方で人をその場所に降ろす。反宗教の駅は、<ほんとうのもの>はどこにもないのだ、そんなものを求めることはないのだという仕方で降ろす。賢治が択んだのは、そのどちらでもないような仕方で歩き続けることだったと思う。

真木悠介『自我の起原』岩波書店

 

宮沢賢治が択んだ「第三の道」のように、見田宗介もまた「どこまでも行ける切符」を手に、<ほんとうのもの>を求めつづけ、「反時代の精神たち」に言葉を届けてきた。

見田宗介が措定してきた「虚構の時代」のなか、「時代の商品としての言説の様々な意匠の向こう」(真木悠介)めがけて、「ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たち」に、上記の論考を含む、「分類の仕様のない書物」の言葉たちは放たれる。

「ほんとう」という言葉からはじまったぼくの旅路は、こうして、新たな旅路が目の前に、どこまでもどこまでも、ひろがっている。