「言語を学ぶこと」の「先の先」にあるもの / by Jun Nakajima

英語、中国語、テトゥン語といった言語を
学んできた。そして、まだ学んでいる。

「言語を学ぶこと」で世界は拓かれてくる。

言語を学ぶことの「先」には、たくさんの
ベネフィットが待ち受けている。
旅行ができる、会話することで生活できる、
仕事を得ることができる、外国語書籍が読める、
インターネットで外国語ページが読める、
などなど。

でも、言語を学ぶことの「先の先」には、
3つのことがあるように、ぼくは思う。

  1. 人とのコミュニケーションの渇望
  2. 「世界」を拡げていくことの渇望
  3. 自分や自分の背景としての文化を知る渇望

大学時代、夏休みはバックパッカーで
アジアを一人旅した。
中国、香港、タイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー。

どこにいても、現地の言語が話せたら素晴らしい
のにな、と感じた。

ベトナムを旅立つときは、将来ベトナム語も勉強
しよう、と思った(今現在できていないけれど)。
中国語をもっと勉強しよう、と思った(今現在、
まだ流暢にはなれていないけれど)。
人とのコミュニケーションの渇望を感じた。

「世界」は言葉でできている。
「世界」の解釈は、言葉でつくられている。
だから、新しい言葉を学ぶと、「世界」は
拡がっていく。

「’世界」が拡がりながら、自分が住んでいる
「世界」と、この言語が話される「世界」とを
比べていく。
そのようにして、「自分」というもの(現象)を
取り崩し、つくりなおしていく。
「比較社会」的に、自分の住んでいる「社会」
(「世界」)を客観的に見ていく。
牢獄にいる「自分」を、解きほどいていく。

言語を学ぶことの「先の先」に、
ぼくは、これらのことを渇望してきたのだと思う。

だから、今日も、「世界」を少しでも
拡げていこう。
その意味でも、生きることは、冒険である。