15年ほど前の2002年1月、
ぼくは大学院で修士論文を提出した。
タイトルは、
『開発と自由~アマルティア・センを導き
の糸に~』である。
経済学者アマルティア・センの研究を題材に、
途上国の開発や発展を「自由」をつくりだす
という視点でとらえなおす試みである。
執筆作業の最後の2週間は、
昼も夜もわからなくなるくらいに
自室で黙々と書いていた。
でも、一つ確かに言えることは、
ぼくは、この修士論文を、書きたくて書いた。
書く必要性があって書いたことである。
大学院の修士課程を修了する必要はあった
けれど、ぼくはそれ以上に、この論文を
書く必要があった。
15年ほどして、その修士論文を読み直す。
気づいたのは、次の通りである。
(1)生き方の基盤づくり
ぼくの生き方の「基盤づくり」となった
ことが、まず挙げられる。
論文完成後の15年にわたる、ぼくの生の
方向性をしめしていてくれたことを、感じる。
納得のいくまで書き上げた文章は、
必ず、ぼくたちの人生を豊饒にしてくれる。
基盤づくりは、大別すると二つの点に
おいてである。
① 内容
② 論文執筆の準備とプロセス
「自由」に関する内容はもとより、
執筆の準備とプロセスである。
その準備とプロセスで得てきたものが、
ぼくの内面の奥に、しずかに積み上げら
れてきたのである。
(2)原的には今も変わらない理論
理論は、今読んでも、今の考え方と変わ
っていないことに気づく。
15年の歳月をかけて、ぼくは「経験・体験」
を自身に通して、生きてきた。
それでも、基本の考え方は変わっていない。
ただし、それが「実践」にどこまでうつせ
てきたかは、綿密な分析作業が必要である。
これは、今後のぼくの課題としたい。
しかし他方で、世界は、この15年において
次の時代に向けて大きく変わってきている。
グローバル化は圧倒的なスピードで拡大して
きている。
情報技術の進展も、多くの人が予測できて
いなかった。
人工知能は、すでに世界を変えはじめている。
アジアの発展はめざましく、しかし今度は
国単位ではない貧富の差が拡大してきている。
視点を歴史にうつすと、Yuval Harari氏が
いうように、飢餓・伝染病・戦争は、管理
可能な課題に移行をしてきたのが人類である。
そして「現代」は、社会学者の見田宗介が
いうように、「近代」の最終局面にある
<過渡期>としてとらえられる。
次なる局面に、どう移行していけるだろうか。
(3)「終章」の存在
修士論文の終章は、ぼくに次の「課題」を
あたえていたことに気づく。
終章は「包括的な『開発と自由』論(仮名)
に向けて」と題されている。
そのようなことを、ぼくはすっかり忘れて
いた。
時を経るうちに、記憶は終章の存在を、
ぼくの無意識に、そっとおさめていたのだ。
村上春樹の著作が、第二部でいったんおわり
続編である第三部がでるかでないのかわから
ないのとは異なり、ぼくは、明確に、次の
課題を記載していたわけだ。
ふと修士論文を見たくなったのは、
もしかしたら、この終章がぼくを呼んでいた
のかもしれない。
ぼくの無意識がなんらかの理由で、
この記憶を意識下におくりだしたのかも
しれない。
人生には、ぼくたちは多くの「未完」を
無意識にしまってあるのかもしれない。
無意識の地層で、ときにゆっくりと眠り、
ときにゆっくりと熟成されていく。
そして、ときに、なんらかの磁場のなかで
それらは意識に浮上してくる。
だから、ぼくは、意識下におくりだされた
この記憶を頼りに、この「終章」を、
なんらかの仕方でひきついでいく方途を
さがしはじめている。