香港で、「貧困」のコンセプトを考える - シエラレオネ・東ティモールから香港を経る中で。 / by Jun Nakajima

香港は、この10年で、物価がとても
高くなった。
不動産価格はなかなか下がらない。
家賃などもこの10年で上がり続けて
きた。
海外からくる、いわゆるエクスパット
は、高騰する家賃を避けるために、
外に家を探しもとめているという
ニュースが出ていた。

香港は、貧富の差が大きいところだ。
「ジニ係数」という所得分配の不平等
さを示す係数において、香港はアジア
でもっとも係数が高い。
それだけ、所得格差が開いている。

ぼくは、大学後半から大学院で、
「途上国の開発」や「貧困問題」を
研究してきた。

大学院修了後は、世界で最も寿命が低い
と言われていたシエラレオネ、
それからアジアで最も貧しいと当時言わ
れていた東ティモールに、
国際NGOの職員として駐在した。

「貧困」については、そのカテゴリーは
好きではないけれど、学問としても、
それから実務でも、正面から向き合って
きた。

シエラレオネでは紛争後の緊急支援に
たずさわり、それから、東ティモール
では、コーヒー生産・精製の支援から
「収入改善」のプロジェクトを運営して
きた。
そこから、経済成長を続ける香港に
わたってきた。
香港では、「経済」や「お金」という
ものを、正面から考えさせられてきた。

しかし、途上国(南北問題の「南」の
国)の貧困と、先進国の貧困とを、
理解しておく必要がある。

ぼくは、このことを、社会学者・見田
宗介の「現代社会の理論」から学んだ。
「貧困のコンセプト。二重の剥奪」と
題された文章で、見田はこのように記述
している。

 

…貧困は、金銭をもたないことにある
のではない。金銭を必要とする生活の
形式の中で、金銭をもたないことにある。
貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外
がある。この二重の疎外が、貧困の概念
である。
 貨幣を媒介としてしか豊かさを手に
入れることのできない生活の形式の中に
人々が投げ込まれる時、つまり人びとの
生がその中に根を下ろしてきた自然を
解体し、共同体を解体し、あるいは自然
から引き離され、共同体から引き離され
る時、貨幣が人びとと自然の果実や他者
の仕事の成果とを媒介する唯一の方法と
なり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、
幸福と不幸の尺度として立ち現れる…。

見田宗介『定本 見田宗介著作集 I』
(岩波書店)


途上国の「貧困研究」では、見田宗介が
正しく指摘するように、この「あたり前」
のことを議論の前提として忘れてしまう
ことがある。

 

香港の生活(香港だけでなく、例えば、
東京の生活もそうだけれど)は、まさに、
「金銭を必要とする生活の形式の中」に、
人びとをまきこんでいく。

物価が上がり続けてきた中で、
つまり「金銭を必要とする生活」度合いが
強まる中で、人びとは、「貧困」に陥らな
いように、走り続けなければならない。

香港では「自然」は実際には大規模に広が
っているものの、それは生活の物質的な
豊かさをもたらすものではない。

多くの人は「都会生活」である。つまり、
「貨幣への疎外」を経験している。
だから、通常は「金銭」を増やしていく
ことしか、道はない。

「金銭を必要とする生活」のダイナミクス
と、その切迫感が、香港のスピードの速さ
とエネルギーを生み出しているように、
ぼくには見える。

ただし、香港では「共同体」が、「家族」
という単位で、最後の砦を守っている。
核家族ということもあるけれど、
「拡大家族的な共同体」の砦であったりする。

「家族」が、愛情の共同体であると共に、
ソーシャル・セキュリティ的な役割(物質的
な拠り所)も担っている。

世界で最も「貧しい」と言われていたシエラ
レオネから、アジアで最も「貧しい」と言わ
れていた東ティモールへ。
それから世界でも最も「豊かな」ところで
ある香港へ。

ぼくは、この「格差」の中で、社会や世界を
考えさせられる。
ぼくも、「金銭を必要とする生活」の只中で、
しかし、日々、こうして食事をすることが
できることに感謝する。
感謝しながら、「自分にできること」を考える。