「ぼくは、ブログを、あと何回書けるだろうか?」- 「有限性」を味方につける。 / by Jun Nakajima


「ブログを毎日書く」ということそれ
自体は、楽しさと共に、それなりに
大変なことであることを経験している。

ブログを毎日書くことの「筋肉」が
まだできあがっていないこともある
けれど、少しづつ「筋肉」をつけて
きていても、それなりに、大変だなあ
と感じる。

ほんとうに書きたいことを書いても、
大変である。
ほんとうに書きたいことだから、
大変であるとも言えるけれど。

その「大変だなあ」と感じたときを
言葉にすると、
「1年間に365回も書いて、
撮った写真と共にアップロードする
のかあ」
という感じである。

そんなことを考え感じながら、
走るためにジムに向かっている最中
に、ぼくの言葉が、字義通り、逆転
したのだ。

「ぼくは、ブログを今後も毎日書いて
いくとして、生きている間に、あと
何回書けるだろうか?」と。

ブログを書く「仮定」として、
・毎日書くこと
・100歳~120歳まで書き続けること
とした場合、ざっくり計算して
「あと2万から3万回」であった。

これが多いか多くないかは、
人それぞれの感覚の仕方だけれど、
少なくとも、ぼくにとっては「少ない」
という感覚であった。
「あと、2万回から3万回しかない」
という感覚である。

上で書いた「仮定」は、
このぼくの感覚を「てこ」にして
次のように強化された。
・(やはり)毎日書こう
・(やはり)100歳~120歳まで、
 この世に生がある限り、書こう

昨年から日本でもベストセラーに
なっているという著書『LIFE SHIFT
ライフ・シフト)』にあるように、
ぼくたちは人生100年時代に突入して
いる。

歴史学者Yuval Harariの言うような
人類の次の課題である「不死」へは、
ぼくが生きている間は技術が届かない
だろう。
(ただし、他方で、身体だけを変えて
「蘇らせるような」技術開発は進んで
いるようだ。この先10年~20年で
それなりの開発成果がでるかもしれな
い。)

だから、最近、世界最年長者(生まれ
が19世紀)の方が他界されたとのニュ
ースがあったように、120歳ほどまで
が現状では寿命の可能帯であろう。
(19世紀の方が亡くなられたのは、
ぼくはとても残念に感じた。そして、
その方は「世界」をどのように見て
感じていたのか、と思う。)

不死の願いはぼくには(今のところ)
ないけれど、生を生ききるという
観点からは、ぼくは健康に長生きする
をことを願い、そのために行動したい。
ぼくたちは「生かされている」のでも
あるから(毎日、食という形で、大切
な「命」をいただいて生きている)。

というわけで、ぼくは生きている限り
は、書くことができる限りは、毎日、
書いていきたい、と思う。

人生を「終わり」から見て、行動や
イベントを「数値化」したときに、
ぼくたちは、そこで「有限」に出会う。

・人生でご飯を食べられるのは「*回」
・人生で大切な人とお正月を迎えられるのは「*回」
・人生で読める本は毎日1冊読んでも「*冊」
・人生で・・・は「*回」
等々。

この「有限性」の感覚は、ときに、
人生を虚しいと感じさせることもある。
しかし、この「有限性」は、その有限
な1回1回を愛おしいものとして、
感覚することもできる。
人生の「有限性」が生を豊饒化する。

世界で、いろいろな人たちに出会って
きた。
ニュージーランドで、西アフリカの
シエラレオネで、東ティモールで、
ここ香港で。
ある人(たち)との「出会い」は
無限であるように感じても、それは
有限である。
世界がいくらSNSでつながっても、
一緒に過ごす時間は有限である。
でも、だからこそ、出会いを愛おしく
感じることができる。

これからの人類の課題(であると共に
ぼく自身の研究と生き方の課題)の
ひとつは、「有限性/無限性」のテー
マである。

「有限性」を味方につけるのだ。

でも、そこには、きっと、
「無限な『何か』」が内包されている
と、ぼくは思う。