日本国外に15年も住んでいると、
(場所によるかもしれないけれど、
ぼくにとって)英語は普通に身について
いる。
もちろん、レベルとしてはまだまだで
ある。
言語というのは、
当たり前と言えば当たり前だけれど、
できない人から見ると、少しでも話せる
人は話せるように見える。
また、そんな少しでも話せる人は、
すごく話せる人から見れば、まだまだ
話せていない。
その意味で、まだまだである。
英語は「知識」で話そうとすると、
どこかで無理がくる。
文法や単語や語彙といった「知識」だけ
では、どこかで壁にぶつかってしまう。
それはそれで大切ではあるけれど。
英語をまさしく「英語」とするのは、
知識だけでなく、コミュニケーションへ
の「思い(憧憬)」と「経験」である。
「知識」に、「思いと経験」が掛け算
される形で「知恵」になっていく。
つまり、身についていく。
多くの人が「学ぶこと=知識を得ること」
で、止まってしまう。
香港でも、よく見てきた光景だ。
「学ぶこと」が「知識を得ること」に
狭められてしまう。
「知識」x「思い・憧憬」x「経験」
=「知恵」
ひとつずつ説明を加えておきたい。
(1)「思い・憧憬」
「コミュニケーションをとりたい」と
いう思い・憧憬(たとえ、それが直接的
な会話であろうと、書籍などであろうと)
大切である。
言葉に、気持ちがこもり「言葉」になる。
あの時、話せなかった悔しい思い出など
が、強い思いに変わる。
ぼくはそのような悔恨を、アジアへの旅
で、ニュージーランドで、強く感じてきた。
20年以上前、香港でようやく見つけた宿
の方に、どれだけ御礼を伝えたかったか。
など。
また、悔恨だけでなく、好奇心や知りたい
気持ちなども、憧憬をひらく。
ぼくは、好きな洋楽を英語で理解したか
ったし、洋書も、「ぼくの世界」を開く
入り口であった。
なんでもいい。
自分のほんとうにしたいことや学びたい
ことは、英語やその他言語によって、
ひとまわりも、ふたまわりも大きな世界
を、ぼくたちに開いてみせてくれる。
(2)「経験」
そして、「経験」である。
学校の授業なども、学び方によっては
経験とすることもできる。
けれども、やはり「生きた・活きた英語」
に触れること。
アジア英語もあれば、アフリカ英語、
ヨーロッバ英語もある。
アジア英語も各地の英語でくせがある。
アフリカも、ヨーロッパも同じだ。
「生きた・活きた英語」にふれてきて、
ぼくは自分の学びの姿勢が恥ずかしく
なったものだ。
ぼくは、何にこだわってきたのだろうと。
「経験」の中には、
「失敗と成功」の体験がある。
なんど失敗したことか。
でも伝わることもある。
「経験」の中には、
「レビュー」がある。
「失敗と成功」を振り返って、
レビューして学ぶ。
(3)「知恵」
「知識」x「思い・憧憬」x「経験」
として、
「知恵」となっていく。
「知識」は学びつづけて当然のもの
として、でもそれは「知識」でしかない。
そして、これらは、
ほんとうの「コミュニケーション力」
と一緒になって、ほんとうの「言葉」と
なる。
ここで言う、ほんとうの「知恵」は、
言語力とコミュニケーション力が
一緒になったものだ。
このような道を通って、ぼくは今ここ
にいる。
だから、「知識への偏向」から
飛び出よう。
思いと経験が、知識を要請するときが
後から、きっとくるから。