川上未映子・村上春樹著『みみずくは黄昏に飛びたつ』- 「抽斗」を増やしながら生きてゆくこと。 / by Jun Nakajima


著作『The World According to Star
Wars』を、著者のCass R. Sunsteinは
このように書き始めている。
ユーモアをこめながら、でも結構真剣に。

「人間は3種類の人に分けられる。
Star Warsが大好きな人、Star Warsが
好きな人、それからそれらどちらでも
ない人。」

同じことが「村上春樹」にも言える。
人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹
が好きな人、それらどちらでもない人に
分けられる。

これによると、ぼくは「村上春樹」が
大好きな人、である。

村上春樹の新作『騎士団長殺し』は
文章としても、物語としても、隙のない
作品である。

村上春樹が、
・一人称での語り
・「私」(「僕」ではなく)という主語
で、展開する物語である。

その主人公の「私」は36歳で、肖像画家。
妻に突如去られ、それから友人のはからい
で、小田原郊外の山の上に位置する、アト
リエ付きの家に一人で住むことになる。
肖像ではなく、ほんとうに描きたい絵を
追い求めているが、思ったようにいかない。
肖像画から手をきろうというときに、
謎めいた人から肖像画の依頼が来る。
そこから「物語」が思わぬところへ「私」
をみちびいていく。

出版から2か月しか経っていない2017年
4月末。
作家の川上未映子が村上春樹に訊く形で
インタビューがまとめられた書籍、
『みみずくは黄昏に飛びたつー
川上未映子訊く/村上春樹語るー』
(新潮社)が出版された。

川上未映子が書いているように、
著作『騎士団長殺し』のインタビューが
結果として村上春樹の作品全体に広がる
内容になっている。

【目次】
第一章:優れたパーカッショニストは、一番大事な音は叩かない
第二章:地下二階で起きていること
第三章:眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい
第四章:たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ

「第一章」は、2015年、村上春樹の
『職業としての小説家』の刊行記念で
行われたインタビューである。
文芸誌『MONKEY』に掲載された。

「第二章~第四章」が『騎士団長殺し』
が完成された後に、3日間にわたって
おこなわれたインタビューの記録である。

「作家によるインタビュー」が、通常の
インタビューとは異なる雰囲気と内容を
つくりだしている。
(*村上春樹は、作家同士の「対談」は
あまり好きではない、と語っている。
今回は「インタビュー」という形式で
ある。)
「言葉になりにくいもの/言葉」への
言葉化がいたるところで試みられている。

ここでは、(それらが主題というわけ
ではないけれど)3つだけにしぼって、
書いておきたいと、思う。

(*よい本なので、詳細については、
ぜひ読んでみてください。
『騎士団長殺し』それ自体の部分について
は、ここでは触れません。
物語そのものを、著作で味わってください。
インタビューでは、この新作について
かなりつっこんで話されています。)

 

(1)「抽斗(ひきだし)」

ぼくたちの「生き方」において、汎用的
に取り出せるところとしては、「作家の
抽斗」がある。
村上春樹は「いつも言うことだけど」と
断った上で、語っている。

 

作家にとって必要なのは抽斗なんです。
必要なときに必要な抽斗がさっと開いて
くれないと、小説は書けません。
みみずくもそのひとつかもしれない。
…手持ちのキャビネットが小さな人、
あるいは、仕事に追われて抽斗の中身を
詰める時間のない人は、だんだん涸れて
いきますよね。だから僕は何も書かない
時期には、一生懸命、抽斗にものを詰め
ていくことにしています。いったん長編
小説を書き出したらもう総力戦だから、
役に立つものはなんだって使います。
抽斗は一つでも多い方がいい。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

「抽斗」は、この世界で生ききるために
も、必要である。
どれだけ、抽斗ができているか、で、
ぼくたちの生はかわってくる。

例えば、ぼくが経験してきたように、
紛争地の圧倒的な「リアリティー」に
対面したとき。
人や組織の圧倒的な「問題・課題」に
直面しているとき。
ぼくたちもそんな場面では「総力戦」で
ある。
そこでは「抽斗」が大切な役割を果たす。

だから、常日頃から、ぼくたちは「学ぶこ
と」をしておく。
抽斗がいつでもさっと開いてくれるように。


(2)「物語をくぐらせる」プロセス

川上未映子の作家としての関心が、小説と
「近代的自我」の問題にある。
その関心に深く支えられた質問たちが、
村上春樹に矢継ぎ早に投げかけられていく。
言葉化の難しい領域であるけれど、
とてもスリリングなやりとりが展開される。

「物語と自己の関係」について川上未映子
が訊くなかで、村上春樹は語る。

 

…自我レベル、地上意識レベルでのボイス
の呼応というのはだいたいにおいて浅いも
のです。でも一旦地下に潜って、また出て
きたものっていうのは、一見同じように
見えても、倍音の深さが違うんです。
一回無意識の層をくぐらせて出てきたマテ
リアルは、前とは違うものになっている。
…だから僕が物語、物語と言っている
のは、要するにマテリアルをくぐらせる
作業なんです。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

この表現に、ぼくは「納得する」ことが
できる。
その納得感をもっと詳細に説明せよ、と
言われたら、できないけれど。

 

(3)言葉の身体性、書き直し

村上春樹の「創作プロセス」は、これまで
もいろいろなところで語られてきた。
このインタビューでも、違う角度をもって
語られる。

この「創作プロセス」は、作家はもとより
「なにかをつくること」に本気でとりくむ
人たちにとっては、自分の経験・体験に
照らして、ヒントとなる「語り」が、
いっぱいに散りばめられている。


僕の書き直しは、自分で言うのもなんだけ
ど、けっこうすごいと思います。
あまり自分のことは自慢したくないけど、
そのことだけは自慢してもいいような気が
する。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

「書き直し」に力をいれるのは、
第一稿での、書くものの「自発性」を
大切にするからである。
そして、書き直しは、「目よりは主に
耳を使う」ことで進んでいく。

ここに、言葉の「身体性」的な、ぼくの
求めているものに照射する「語り」が、
湧き上がっている。


音楽を演奏するみたいな感覚で文章を
書いているところは、たしかにあると
思う。耳で確かめながら文章を書いて
いるというか。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

村上春樹は、1960年代の学園闘争の時
に感じていた「表層的な言葉に対する
不信感」を、今でも、感じている。

それへの抵抗の意思が、村上春樹の作品
をつくってきた。
でも、「表層的な言葉」にならないため
の武器は、村上の「文体リズム」にある。
それは、身体で書く文体リズムである。
「音楽から文章の書き方を学んだ」村上
の身体的な文体が、表層的な言葉を超えて
読者に呼応していく。

以上、このインタビューで、訊かれ、
語られているものの、ほんの一部である。

 

その他、村上春樹は過去の自分の著作
(新作『騎士団長殺し』を含め)の
詳細について、結構「覚えていない」
ところが印象的であったりする。

物語がプロット的ではなく自発的に
つくられ、書き直しで文章をつくりこ
んでいく、という村上の創作プロセス
が深く実感できる、「覚えていない
発言」である。

 

ぼくは、そんなインタビューを読み
ながら、『騎士団長殺し』をもう一度、
読みたいという衝動がわいてきた。
でも、もう少し、ぼくの側での
「自発性」を待とうと思う。
ほんとうに、読みたくなる瞬間を。

それまで、物語は、ぼくの意識下の
「見えない地層」で、
静かに熟成を続けているであろう。

そして、その間ぼくも、
せっせ、せっせと、
「抽斗」を増やしておこう、
と思っている。

 

追伸1:
ぼくは、高校時代に初めて村上春樹
の作品に出会いました。
書店で高く積まれた(赤色と緑色の
ハードカバーの)『ノルウェイの森』を
手にとったのです。
でもぼくは、好きになれなかったのです。
『ノルウェイの森』も、村上春樹も。

Cass R. Sunsteinをまねて言えば、
「村上春樹を大好きでも好きでもない人」
に分類されたわけです。

それから、大学院のときに友人にすすめ
られ、また読み始めたのです。
手にとったのは確か、
『世界の終わりとハードボイルド・
ワンダーランド』。

ぼくは、ページを繰る手が止まらなく
なってしまった。
「村上春樹を大好きな人」へと変わって
いったわけです。

このインタビューを心でききながら
ぼくは、ぼく自身の「変化」が
わかったような気がしています。
論理的にも、感覚的にも。


追伸2:
写真は、インタビューの書籍ではなく
『騎士団長殺し』です。
『みみずくは黄昏に飛びたつ』は
電子書籍で楽しみました。


追伸3:

「追伸」が多いですが、
作家・川上未映子の作品は読んだこと
がなくて、早速手に入れました。
川上未映子のインタビューでの
真摯さにひかれ、
ぼくと同年代の彼女の作品を読んで
みたくなったのです。