「小さい変える」でも、行動を変えてみること。- 「自分の世界」に、いっぱいの「小さな裂け目」を仕掛ける。 / by Jun Nakajima

人間の「意識」とは、ぼくたちの脳が
世界をシュミレートしていくプロセス
により生成していく。
それは「自分という経験」(自我)を
現象させる。

ぼくたちの「意識・自我」は、
例えば次のようなステップをふみながら
ぼくたちを守り、同時に、ぼくたちの
周りに「檻」を築いていく。

<ステップ1>
説明できない世界、あるいは何もかも
新しい世界は、不安と恐怖をぼくたちに
与える。
ぼくたちの脳は、世界をシュミレート
しながら、「知」(説明)をとりいれ
ながら、そこに「自分の世界」をつくる。

<ステップ2>
「知ること」は、ぼくたちに「安心」を
与えてくれる。
「安心な世界」で、ぼくたちは、
他のことを楽しむことができる。

<ステップ3>
しかし、「知ること」で構築されてきた
「知られた世界」(自分の世界)は、
やがて、ぼくたちの心身を、
その「世界の檻」に閉じ込めてしまう。

そして、「世界の檻」に閉じこめられた
ぼくたちは、いつしか、その「檻」から
出ることに不安と恐怖を覚える。

自分の意識・自我は、これらステップを
通じて、「自分」を守ると同時に、
「自分」を檻に閉じこめる。

「自分」は、この「世界の檻」の外へと
出なければ、「自分」自身を壊してしま
う。

「世界の檻」の外へと向かう/出る契機
は、さまざまな仕方でやってくる。

テレビドラマの主人公たち、
映画の主人公たち、
小説の主人公たち、
そしてぼくたち自身は、人生の危機や
どん底、あるいは、人生を変えるよう
な旅や冒険のプロセスを通じて、
「世界の檻」の外へと出ていく。
それから、その「外」での経験を経て
「内」にもどってくる。

テレビや映画や小説であれば、ぼくた
ちは、この「道ゆき」のドラマに心を
うたれ、感動する。

ぼくたち自身が「道」を通過するとき
ぼくたち自身の「世界」そのものが
変わってみえる。
けれども、それは、ほんとうは「自分」
が変わる経験である。

「自分」をほんとうに生きていこうと
すればするほど、
この「契機」は、さまざまな仕方で
やってきたり、つくられたりする。

でも、「大きな出来事」に依存する
必要はまったくない。

ぼくたちは、日々の生活の中に、
そのようなきっかけを、いろいろに
仕掛けていくことができる。

自分の知や意識の扉が閉じられない
ように、ぼくたちは日々、心身の扉
をひらいていくことができる。

いつもとは違った道を歩いてみる
ことでもいい。
同じ風景を違う角度で見ることでも
いい。
朝早く起きてみることでもいい。
ちょっと走ってみることでもいい。
ネットではなく本を読んでみること
でもいい。
違ったジャンルの本を読んでみる
ことでもいい。

「大きな出来事」が、ドラマのよう
に、人生を変えることもある。
でも、このような「小さな行動」が
「自分」の至るところに広がって、
それらがやがて閉じ込められた
「自分」をやぶるかもしれない。
いっぱいの「小さな裂け目」が一気
に破裂するように。

そして、これらの行動は、
「がんばる」ことでもない。
「楽しむ」ことである。
(楽しむといっても、字のように
「楽」とは限らないけれど。)

自分の知や意識の「扉」が閉じられ
ないように。

 

追伸:
今朝はここ香港で、
いつも電車で
いくところを、
歩いていきました。
写真は、その「道ゆき」で見つけた
公園です。
比較的新しい公園なのかもしれない
けれど、こんなところに公園があっ
たことは、この10年、知りません
でした。

ぼくの意識に、とても小さいですが
「裂け目」をつくりました。
この「裂け目」から入ってくる、
わずかな光が、「自分」の何を照ら
しだすかはわかりませんが。