15年にわたり、世界で働いてきた。
世界でいろいろな人たちと働いてきた。
大学時代には、
ワーキングホリデー制度を活用して
訪れたニュージーランドの日本食
レストランで、働いた。
韓国人の方がオーナーで、従業員は
中国人・台湾人・日本人という
組み合わせであった。
それから、国際NGOの組織で、
西アフリカのシエラレオネに赴任。
難民キャンプの運営、井戸掘削など
のプロジェクトで、
シエラレオネの人たち、それから
隣国リベリアからの難民の人たちと、
働いた。
NGOのチーム、他のNGO、国連、
シエラレオネ政府、シエラレオネの
いろいろなコミュニティの人たち
など、日々かかわりながら、紛争後
のシエラレオネで、働いた。
シエラレオネから、東ティモールに
移り、今度はコーヒー生産者支援。
独立した東ティモールの輸出産業の
要であるコーヒー産業において、
コーヒー生産者の生活支援であった。
NGOチーム、他のNGO、JICA、
日本政府、東ティモール農業省、
国連、エルメラ県レテフォホの人たち
など、プロジェクトを軸に、いろいろ
な人たちと仕事をしてきた。
香港では、人事労務コンサルタントと
して、主に香港にある日系企業の方々
と、人・組織のマネジメントにおける
問題・課題に向き合ってきた。
香港に駐在員として来られる日本の方々、
管理職として勤務される香港の方々など
ほんとうに多くの方々と、仕事をさせて
いただいた。
働くという「場」だからこそ、いろいろ
な方々に出会うことができた。
通算で15年以上にわたり世界で働いて
きて、その経験たちが、
ぼくに「どのような影響を与えたのか」、
ぼくにとって「何であったのか」
について、ぼくはこんなことを考えている。
(1)働く・生きるの多様性
日本にいたときは、ぼくの視界・視野
は、ひどく狭いものであった。
「レールにのるか、レールから外れる
か」くらいにしか、ぼくは見ることが
できないでいた。
世界に出てみて、働く、そしてそれを
貫いていく「生きる」という経験に
おいて、その多様性に圧倒された。
出会う人それぞれに、生きてきた人生
があり、それぞれの場で人生が交錯し
て一緒に仕事をする。
人の生きる「道」は、人がいるだけ
あるのだと、実感として、ぼくは
思えるようになった。
出会う人たちとは、一部の仕事だけの
関係であることもあるけれど、
仕事という枠組みは往々にして曖昧に
なり、人と人との関係、つまり生きる
という経験に押し出されてきた。
「働き方」も、ぼくが習ってきたこと
や思っていたことが、実際の経験の中
で、書き換えを余儀なくされた。
(2)出会いにつくられる「自分」
働く・生きるの多様性は、「人との
出会い」によって、ぼくに提示されて
きた。
出会った人たちに、少なからず、影響
を受けてきた。
出会った人たちが、やがて、ぼく自身
の内面に住みついていく。
「良心は両親の声」と言われるように、
また、
「自我はひとつの関係である」と
社会学者の見田宗介が言うように、
「自分」とは、他者との関係性でつく
られるものでもある。
そのようにして、ぼくの「自分」とい
う経験は、出会う人たちの影響を受け、
豊饒な空間をぼく自身の内部につくっ
てきた。
そのようにして、出会い、仕事を一緒
にしてきた人たちが、ぼくの中に、
生きている。
(3)ぼくの「ライフ・ミッション」
働く・生きるの多様性に圧倒され、
また、人との出会いにより「自分」を
つくりながらも、
やがて、ぼくは自分の軸のようなもの
を形づくってきた。
絞り出されてきたとも言える。
そのように絞り出されてきたのが
今のぼくという人間であり、また
ぼくの「ライフ・ミッション」である。
子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききることの
できる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。
数年前に、この今の「ライフ・ミッ
ション」に結実してきた。
このプロセスの中で、
働くことと生きることが、
ひとつになってきたように、思う。
ぼくはこんな風景を思い出す。
シエラレオネのある地区の
簡易な空港の滑走路で、
ぼくはシエラレオネのスタッフと
人のマネジメントの難しさを語って
いた。
いろいろと難しい問題にぶつかって
いたのだ。
「最後は、やはり人なんですよね。
人間学です。」
ぼくは、滑走路から飛びたつ国連機
を遠い目で眺めながら、
英語で、そんな言葉を彼に投げかけ
たことを、今でも覚えている。
そして、今でも、
ぼくは「人」を追い求めている。
「人と人との関係性」(社会、組織、
交響圏など)を追い求めている。
どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききる世界を
つくっていくために。