まったく想像のこととして。
腹が立ったとき、作家の村上春樹に
「村上さん、腹が立って仕方がない
んですよ」
と、相談をもちかけたとする。
村上春樹は、どのように応えて
くれるだろうか。
例えば、こんな具合である。
僕はいつもより少しだけ長い距離を
走ることにことにしている。いつも
より長い距離を走ることによって、
そのぶん自分を肉体的に消耗させる。
そして自分が能力に限りのある、
弱い人間だということをあらためて
認識する。いちばん底の部分でフィ
ジカルに認識する。そしていつも
より長い距離を走ったぶん、結果的
には自分の肉体を、ほんのわずかで
はあるけれど強化したことになる。
腹が立ったらそのぶん自分にあたれ
ばいい。悔しい思いをしたらその
ぶん自分を磨けばいい。そう考えて
生きてきた。…
村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)
村上春樹は、そう言った後で、
こんな風に終わりに付け加えるだろう。
「そういう性格が誰かに好かれる
とは考えていない」し、
走ることを勧めるわけでもないし、
これはあくまでも、僕個人のこと
だけれど、と。
ぼくたちは、例えば、
このようにして、村上春樹を
相談相手にすることができる。
読書は、そんなふうに、
擬似相談の場でもあったりする。
さらには、村上春樹が、
頭の中に住みついていくことも
ある。
そして、頭の中に住みついている
他の人たちと話したりする。
頭の中での、擬似会議の場となっ
たりする。
村上春樹は、自身で述べている
ように、「頭の中で純粋な理論
や理屈を組み立てて生きていく
タイプ」ではない(前掲書)。
村上春樹は「身体に現実的な
負荷を与え、筋肉にうめき声を
(ある場合には悲鳴を)上げさ
せることによって、理解度の
目盛りを具体的に高めていって、
ようやく「腑に落ちる」タイプ」
である(前掲書)。
どちらかというと、頭の中で、
理論を組み立てていくタイプで
あるぼくは、「村上さん」に
読書を通じて相談している。
そんな「村上さん」が、
あくまでも個人的なことだけれ
どね、と言いつつ、
ぼくに、本の中で、語りかけて
くれるのは、それだけで、
気が晴れたりする。
あくまでも、身体にねざした
地に根の張った言葉が、
ぼくに響いてくる。
その響きの中で、
ぼくもニュージーランドを、
北から南に徒歩で歩いたときに
「自分を肉体的に消耗させ」た
ことを思い出す。
ぼくは、あのとき、
特に何か特定のもの・ことに
腹を立てていたのではないと
思う。
少なくとも記憶にも、ジャー
ナルにも残っていない。
でも、あのとき、
ぼくは「何か特定できないもの」
に対して、言葉にもならない、
怒りのようなものを感じていた
のかもしれない。
だから、今から思い返すと、
「肉体をとことん消耗させた」
ニュージーランドの経験を境と
して、ぼくの生き方は、
「転回」をし始めたように、
思えてくる。
20年以上が経過して、
歩いてきた道を振り返ることで
はじめて見えてきた風景である。
追伸:
村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)
は、2007年の出版でした。
ぼくが、香港に来た年。
この本は、ぼくが香港で生きて
いく上で、影響を与えてきました。
2007年から4年後の2011年。
ぼくは、香港マラソンを完走し、
はじめてフルマラソンを走りきり
ました。
この本の最後で、村上春樹は
自分の墓碑銘に刻みたい言葉を
こう書いています。
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった
ぼくも「最後まで歩かなかった」
という生き方をしたいと思います。
でもちょっとは歩くと思いますが。
少なくとも、香港マラソンでは、
最後まで歩かなかった。
とは言えます。