世界で、「水」との関係性をつくりなおす。- 「日本での当たり前」を乗り越えながら。 / by Jun Nakajima

 

日本を出て海外を旅行するときに
旅行ガイドなどを開くと、
「水に注意すること」
が、書かれているのを見つける。

日本で当たり前の「水」は、
世界では当たり前ではない。

世界の各地では、次のように
「ない」状況に置かれている。

●「安全」ではない
●「水道」ではない
●「水」がない

ぼくも、世界を旅するようになって
から、また世界に住むようになって
から、このことを実際に体験して
きた。


1)「安全」ではない

ぼくは、大学時代にかけめぐった
アジアの国々で、
この水の経験の洗礼を受けた。

水道水はそのままでは飲めない。
だから、水を購入する。
厄介なのは、「氷」である。
アジアの屋台などで食事をするとき
飲み物に「氷」がついてくる。
昔は飲み物は「冷えていない」こと
が普通であったから、氷をグラスに
入れて、そこに飲み物が注がれる。
でも、氷は、水道水から作られて
いたりするから、結果として、
お腹をこわしたりする。

また、場所によっては、飲めない
だけでなく、口に入れることも危険
である。
だから、歯を磨くときも、
購入してきた水をつかったりした
ものだ。

 

2)「水道」ではない

「水道」は世界ではデフォルトでは
ない。
「水道」がないところがたくさん
ある。

東ティモールのコーヒープロジェクト
が展開されたエルメラ県レテフォホ。

コーヒー精製にも、生活にも水が
欠かせないコーヒー生産者たちは、
「竹」をつなげる形で、いわゆる水道
をつくっている。

竹を垂直に半分にわり、つなげる。
水が湧き出ている高台から竹を伝って
水が届く仕組みだ。

「蛇口をひねれば…」の日本ではない。
 

3)「水」がない

「水」がそもそも身近にない、と
いうこともある。

西アフリカのシエラレオネでは、
コノという地域に住んでいた。
ダイヤモンド産地で有名な場所で
それなりの「街」を形成していた
けれど、当時(2002年)には、
街に水道はなかった。
だから、井戸水をつかっていた。

また、当時はプロジェクトとして
井戸掘削の事業を展開していた。
水のない村で、掘削機で、井戸を
掘っていく事業である。
掘削機が水源にたどりつき、
ポンプをとりつけて無事に水が
汲み上げられる。
村の人たちの笑顔が、いっぱいに
ひろがる。
なんとも言葉にならない、よい
光景である。

ある時、ぼくは完成した井戸の
点検のためある村を訪れた。
村人たちと水が出るのを確認する。
たくさんの村人たちが集まって
いてくれた。
ぼくは、思いも寄らない光景に
一瞬動けなくなってしまった。
村の人たちが皆、地面にひれふす
形で、感謝を伝えてくれたのである。
ぼくは「そんなことしないでくださ
い」というジェスチャーをしたのだ
と思う。
「水の大切さ」と共に、ぼくの中に
深く刻印された光景である。

さらに、「水がない」地点から
「水への感謝」につながる瞬間は、
「宇宙の視点」である。
ぼくは、火星が舞台の映画を観る。
人が火星へ移住することの本を読む。
宇宙を旅する映画を観る。
これらの「宇宙の視点」がぼくたち
に投げかけるのは、「水の奇跡」で
ある。

ただ水が存在するということの
奇跡。
そんな風にして、ぼくは、水への
畏敬の念と感謝の気持ちをオンに
する。

世界に住むようになって、ぼくが
変わったのは、
水をよく飲むようになったことだ。

日本にいたときは、「飲み物=
ソフトドリンク、お茶など」で
あった。
それが、水が、ぼくのなかで完全に
デフォルトとなった。

上記のような「ない」状況を通過し
今のところ落ち着いているのは、
・購入した水を飲む
・常温(あるいは温めて)で飲む
である。

世界のいろいろなところの水を
楽しんでいる。
その土地その土地の水を必ず試す。

人のすごいところは、環境に慣れる
適応性である。
しかし、その反面、適応がゆえに、
「ない状況」を忘れてしまう。

だから、水を飲めること、
水を使えることに、感謝を忘れない
よう、ぼくは心がける。
記憶をたよりに、また今ここの水に
感謝を向けながら。


追伸:
水は購入したから「安全」という
わけでもありません。
そこにはいろいろな要素があります。

売っているペットボトルの水を
購入したら、
リサイクルのペットボトルに
中身をリフィルして売られている
なんてこともあります。
キャップの部分が、再度、接合され
ている跡で見つけたりします。