旅の<初めの炎>を灯しながら。- 初めての「海外」、上海の記憶。 / by Jun Nakajima

香港のビクトリア湾。
いくつかのクルーズフェリーが定期的
に行き来している。
ビクトリア湾から大洋に出て、
それからビクトリア湾に戻ってくる。
そんな風景を、ぼくは、毎日眼にしな
がら、香港の日々を生きている。

フェリーは、ぼくが初めて日本の国外
に出たときのことを思い出させる。

ぼくが、初めて海外に出たのは、
1994年の夏のことであった。
当時、ぼくは大学に入ったばかりで
あった。

地元を出て東京にある大学に通い、
中国語を専門に勉強していた。
だから、最初の海外として中国を目指し
たとしても、なんら不思議はない。

いろいろ考えた挙句、
ぼくは、横浜と上海を結ぶフェリー、
鑑真号に乗って、上海から中国に入る
ことにした。

当時はエアチケットはそれなりの
値段がしたし、LCCなどはもちろん
運航していなかった。
そして、何よりも、船旅(的なもの)
にあこがれた。

ぼくの「初めての海外」は、横浜港から
鑑真号にのって上海に入り、そこから
電車で西安に行き、西安から北京を
目指すルートとなった。
北京の故宮で、ある日のある時間に
大学の友人と待ち合わせをして、
会えたら、そこから一緒に天津へ、
そして天津からフェリー(燕京号)で
神戸港に向かうことを計画した。

横浜港では、すでに中国語が飛び交い、
日本と中国を行き来する家族たちが
別れの時を、惜しむようにして分かち
あっている。

やがて、横浜港から鑑真号は出港し、
大洋に出ていく。
心踊らせるぼくは、夕食時に、青島
ビールを飲んだことも影響して、
3泊4日の船旅が「船酔いの旅」と
なってしまった。
大洋は、台風が近づいていたことから、
波を荒くしていた。

その後はベッドに横になったまま、
ほとんど食事をとらず、やがて到着日
となった。
到着日には、ようやく、身体が戻り
はじめていた。
そんなぼくを、上海の入り口の黄浦江
が待っていた。
褐色で、広大に広がる黄浦江に、
ぼくは、深く、心を動かされた。

上海港に着いても、ぼくは船酔いのため
頭がぐるぐるまわっていた。
しかし、港のイミグレーションの風景、
そして、日本とは明らかに異なる匂い、
それらにぼくは、完全に、心を奪われて
いた。

上海港から歩いていけるホテルの
ドミトリーに、ぼくはその日は泊まる
ことにした。
世界各地から、旅人が、そこに集まって
いた。
なんらかのビジネスをしているような
人たちもいた。

それから、ぼくは、上海の街を、熱に
うかされるように、歩いた。
西洋式建築が並ぶ外灘を歩く。
豫園で、小龍包を食べ、烏龍茶を飲む。
蛇をはじめて、食べてみる。
デパートメントストアに入ってみる。
日本人とはわからない格好をしていた
つもりが、通りで、「社長さん、社長
さん!」と呼び止められる。
上海駅の広場に群をなす人たちに圧倒
される。

ぼくは、完全に、心を奪われていた。

それから、この旅が終わってからも、
毎年、ぼくは、海外を目指した。

その内、「旅に慣れる」という状況に
も直面した。
また香港に住みながら、今でこそ、
旅への憧憬は大きくはなくなっている。
それでも、ぼくの中には、
1994年に、上海に降り立った時の
記憶が、刻まれているのを感じる。

初めていく「海外」は、
どんな旅であれ、ぼくたちの中に、
「何か」を残してくれる。

社会学者の見田宗介が、
インド・古代バラモンの奥義書以来の、
エソテリカ(秘密の教え)という伝統に
触れている。
そのエソテリカの内のひとつが、
<初めの炎を保ちなさい>という教えで
ある。
(見田宗介『社会学入門』岩波新書)

ぼくは、上海に降り立ったときに
灯された<初めの炎>を灯している。

香港のビクトリア湾を行き来する
フェリーを眺めながら、
ぼくは、ぼくの心の中で静かに灯る
<初めの炎>を、そっと確かめる。

 

追伸:
今でも、中国と日本をむすぶフェリー
は運航していて、「新鑑真号」が
大阪・神戸と上海を行き来している
ようです。
なお、天津と神戸をむすぶ燕京号は、
2012年で運航を終了したとのこと。