ぼくの初めての「海外」は上海。
1994年、大学1年のときのことで
あった。
横浜港から鑑真号にのって、3泊4日の
旅路であった。
上海に着いて、「日本ではない物事」
に囲まれる経験は、不思議なもので
あった。
「周りの世界との距離感」のような
ものが、ひどく揺らいだ。
日本語のない環境は、そんな揺らぎの
振り幅をいっそう大きくした。
ぼくは「周りの世界との距離感」を
つかみ、揺らぎを鎮めていくように、
上海の街を歩いた。
夏のとても暑い日であった。
「豫園」という庭園にある小龍包の
有名店を訪れ、小龍包を楽しむ。
豫園を歩きながら、夏の暑さにさすが
にやられてしまう。
上海の街では、時折、冷房のかかった
場所を探して、そこに一時的に「避難」
して、暑さと折り合いをつけていた。
豫園では、お茶を飲むのことのできる
「茶館」が、どうやら冷房がかかって
いるようであった。
少し値段がはるので躊躇したが、
暑さにはかなわず、ぼくは茶館に入る
ことにした。
メニューの中から、ぼくは、烏龍茶を
選ぶ。
当時は茶の種類をよく知らなかった。
日本では烏龍茶を飲んだりするので、
安全策で、烏龍茶を選択した。
やがて、烏龍茶が運ばれてくる。
日本のペットボトルに入っているような
烏龍茶とはもちろん異なり、フォーマル
な形式である。
茶道具が一通り揃っている。
工程を終えて、小さなティーカップ
(茶杯)に烏龍茶を注ぐ。
そして、そっと、丁寧に口元に運ぶ。
豊かな香りを楽しみながら、ぼくは
烏龍茶を飲む。
「うん?」
ぼくは、烏龍茶との「距離感」に
大きな揺らぎを感じたのだ。
今まで日本で飲んでいた烏龍茶とは、
まったく異なる香りと味であったので
ある。
何度も口に運びながら、ぼくは思わず
にはいられなかった。
「今まで飲んでいた烏龍茶は、
いったい何だったのだろう。」
烏龍茶にはいろいろな種類があること
は後に知ることになるけれど、
当時感じたのは「種類」を超えるほど
に異なる飲み物だったのだ。
それから、ぼくは烏龍茶との「関係性」
を取り戻すのに、心身共に、ステップ
を踏んでいかなければならなかった。
それは決して大げさではなく。
でも、ひとつ言えることは、この経験
はとても大切であったことである。
例えば、「今までAである」と思って
信じてやまなかったものが、
「いや、Bである」という体験である。
Aというものの既成概念が、あっけなく
壊されていく。
後年、東ティモールのコーヒーを口に
したときも、ぼくは思わずにはいられ
なかった。
「今まで飲んでいたコーヒーは、
いったい何だったのだろう。」
東ティモール、エルメラ県レテフォホ。
コーヒーの木になる赤いチェリーを採り、
乾いたパーチメントに精製をしていく。
まったくの手作業である。
そのできあがったばかりの
パーチメントを脱穀し、そして手作業で
丁寧に煎る。
やがて、コーヒーの、あの香りがたちこ
めてくる。
煎ったコーヒーをグラインダーで粉にし、
ハンドドリップでコーヒーを淹れる。
そのコーヒーを、
そっと、丁寧に口に運び、口の中で味を
確かめる。
「今までのコーヒーは、何だったのか?」
ぼくの「世界」の一部が、確実に、
書き換えられていくときである。
この体験は、
コーヒーや烏龍茶などの飲み物に限らず、
ぼくたちが生きていくなかで、
時折、出くわすものである。
そうして、ぼくたちの「狭い観念」は、
広い海原に向かって、その一部が決壊
する。
ぼくは、23年程前の上海の豫園で、
ぼくに張られた「堤防」を決壊する
装置を、自らに装填したのだ。