自分の準備ができたときに、その
段階・レベルに応じた本が、自分
の前に現れる。
まるで、自分の準備が整うのを
待ち構えていたように。
それは、自分の眼の前に現れる
「問題」と似ている。
自分が解決できないような「問題」
は、自分の前には現れない。
ぼくがコンサルタントとして
コンサルティングをするときも同じだ。
自分が何らかの解決案を出せないよ
うなコンサルティング案件は来ない。
「自分を生きている」限りにおいて
必要なときに、本と出会うことが
できる。
本との出会いを深くする契機は、
二つある。
このことは、社会学者の見田宗介が、
少し異なる文脈で書いていて、
ぼくの中で一部ぼくなりに解釈されて
残っている。
本との出会いが深くなるとは、
本に魅せられることである。
それは、本が次のような契機を提供
してくれたときである。
●自分の問題を「解決する道・方法」を示してくれる
●ことばにならないことを「ことば化」してくれる
人は、本を読みながら、これら二つの
契機のいずれか、あるいは両方を得る
ときに、本に魅せられる。
ぼくにとっては、自分の中で感じて
いるけれど、ことばにならないような
事柄を「ことば化」してくれる本に、
何度も何度も出会ってきた。
そして、その出会いの深さは、
本が、ぼくの「パースペクティブ」
(物事の見方)を変えるほどに、
深くなる。
社会学者・見田宗介(真木悠介)の
一連の著作、例えば、
『気流の鳴る音』
『現代社会の存立構造』
『時間の比較社会学』
『宮沢賢治』
『自我の起原』
『現代社会の理論』
『社会学入門』
は、これらの仕方すべてにおいて
ぼくを捉えてやまない。
これらの本は、20年以上にわたり、
日本と日本の外で何度も何度も、
いろいろな状況の中で読んできた。
読むたびに、今でも学びと気づきに
充ちている。
生きているなかで、そのような本に
出会えることはひとつの奇跡である。