「学ぶこと」と「学ぶことの楽しさ」のメモである。
もっと広い世界に、帆をあげて、舟をこぎだすことのメモである。
ぼくたちは、産業革命につづく「近代」の教育制度の中で、「何かのために」学ぶこと、が、身体にしみついている。
その「何か」は、言う主体や文脈によって、様々に変化していく。
その「何か」に疑いを持ち始めた「現代」の若者達は、シンプル化すると、二つの仕方で対処していく。
①「何か」を(意識的に・無意識的に)忘却し、例えば、試験勉強で学び、大学に入学し、社会に出ていく。
②「何か」を自分なりに定め、例えば、試験勉強で学び、大学に入学し、社会に出ていく。
中には、自分なりに「何か」を定めた上で、大学を飛び越したり中退して、社会に出ていくものもいる。
しかし、マジョリティではない。
①も②も、いずれにしても、「何かのために」学ぶことに終始する。
「何か」は、当面は、大学に合格することであったり、入社するためであったりする。
だから、大学に合格すると、あるいは入社すると、「学ぶこと」をやめてしまう。
入社後も、仕事に関連することは学んだりする。
ただ、やはり、そこで止まってしまう。
「何かのため」の学びに、ぼくたちは成型されている。
それではダメだと、「生涯学習」や「教養」の必要性が語られたりする。
しかし、それらもまた仕事のためにという範疇で、狭められてしまう。
つまり、いわば、「功利的思考への装置」が、ぼくたちには仕組まれている。
「功利的思考」は、生きていく上で役立つものではあるけれども、それだけになると苦しくなってしまう。
だから、「学ぶこと」をもっと広い空間に放ち、「学ぶことの楽しさ」を取り戻すことが大切だと、ぼくは思う。
「学ぶこと」あるいは「学ぶことの楽しさ」には、大きく二つある。
1)新しい学び
2)感じていたことを「言葉化」する学び
そのなかで、時に、「世界の見え方」が変わるような学びに出会うことができる。
しかし、さらに、「学ぶことの楽しさ」は、考えていたことが「つながること」にあると思う。
学んでいるなかで、これまで学んできたことの「断片」が、見事につながるときがある。
それは、別に「何かのための」学びであるわけではない。
しかし、断片がつながることで、そこに「世界」が立ち上がってくる。
ぼくは、そのような「学び」が好きだ。
深い歓びを、ぼくは感じる。
ところで、スティーブ・ジョブズは、かつて「connecting the dots」ということを語った。
生きていく上で、その時には「点」であったものが、後々に見ると「つながる」ということである。
人は、時に、先に「つながり」を知りたくなる。
つまり、物事の「意味・意義」を先に知ることで、「点」の行動へのモチベーションをつかもうとする。
しかし、意味・意義は「後からわかる」ことでもある。
最初から「わかって」いたら、とても「つまらなく」なってしまう。
それは、まるで、映画のエンディングを観てから、映画をはじめから観るようなものだ。
「学ぶこと」もいろいろな「点」をつくっていくことで、どこかで「つながる」瞬間に出会う。
点がつながる。
点と点をつなぐ線が見えてくる。
それは、後付けの「何かのため」という見方もあるけれど、それ自体、とても素敵な瞬間だ。
学ぶことも、生きることも、その本質においては同じなのだ。
だから今日も、ぼくは、学びの、そして生きることの「点」を、「今、ここ」に、せっせとうつ。