「美しい姿勢」への憧れ。- 「ZYPRESSEN」のように、世界に立つために。 / by Jun Nakajima


ほんとうに「美しい姿勢」に、ぼくは憧れる。
人の美しい姿勢と歩く姿は、ぼくの記憶のなかで、アフリカの人たちのイメージと重なる。

西アフリカのシエラレオネ。
朝靄の中を、大地に垂直に立ち、凛とした姿勢で歩を進める人たち。
夕暮れ時には、人のシルエットたちが、同じように、存在の根を大地にはるように、歩んでいく。
とりわけ、頭の上に籠を載せて歩いていく女性たちの、その姿勢と歩みの美しさに、畏れに近い感情を抱く。

「存在」の重み。存在感。
大地に、確かな仕方で立つ姿勢は、とても美しい。

美しい姿勢に対する憧れは、ぼく自身の姿勢の悪さとよくならないもどかしさの裏返しである。
小学生の頃、日本の学校で「姿勢の矯正」の教育があった記憶が、ぼくのなかにはある。
ぼくの姿勢は、中学生の頃には、「前のめり」になっていく。
高校生の頃には、それに、「猫背」が加わる。
そして、いつしか、ぼくは姿勢のことを、意識しなくなっていく。

一般的に、義務教育を終えてから後には、「姿勢」について、きっちりと教えてもらう機会はあまりないかもしれない。
時に、姿勢を仕事とするような場合や、接客やサービスの仕事などにおいて必要な場合、幸運にも、上司などの注意を受けることはある。
また、自分から「学ぶ」という人の話も、あまり聞かない。

なにはともあれ、自分で、切り拓いていくしかない。

ぼくの場合は、美しい姿勢への憧れ、そして他者たちの寛容な「サポート」により、少しづつ、姿勢を変えてきている。

人生のパートナーが、ぼくの横で、いつも指摘してくれる。ぼくも指摘する「指摘協定」だ。
職場で、プレゼンのリハーサルで上司が指導してくれたこともある。
メンターに指導を受ける。
本に学ぶ。

作家の中谷彰宏は、「生まれ変わりたい」と願う人たちへの指導で、姿勢をひとつの契機とする。


生まれ変わりたい人に対して一番目に直すのは、服装です。
二番目は、姿勢を直します。
これは身体的な姿勢と物事の考え方の姿勢です。
三番目に、新しい知識や工夫を入れます。

中谷彰宏『服を変えると、人生が変わる。』
秀和システム

 

中谷彰宏が書いていることを逆転させて、習う側から読むと、服装や姿勢を変えるということは「生まれ変わる」気持ちがあるということでもある。
ぼくの「根底」における「生まれ変わりたい」という焦燥が、ぼくの心に、絶えず火をくべてきたことは確かだ。

それから、「姿勢の専門家」たちの本にも助けられた。
とりわけ、猫背にはいくつか種類があり、ぼくは「腰猫背」であったことの理解は、目を見開かせるものであった。
「猫背」は、シンプルに背中の問題だと思っていたからだ。

そんな風に、自分の姿勢を気にしながら、香港の街で、行き交う人たち、とくに若者たちの姿勢が気にかかってしまう。

若者たちの姿勢が、ぼくが同じくらいの年齢であったころの自分の姿勢と重なる。
ぼくがそうであったように、時代や社会に対する「姿勢」のあらわれのように、ぼくには見える。

「姿勢」は、ぼくたちがこの「世界」に対峙する仕方を表現する。
そして、それはそうであるままで、他者、それから何よりも自分自身に対する態度・あり方でもある。

 

社会学者の見田宗介は、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出てくる、「ZYPRESSEN」という言葉に眼を留める。
ひらがなと漢字のなかで、突如とあらわれる「ZYPRESSEN」。

 

「ZYPRESSEN」…は、糸杉である。詩の冒頭の陰湿な<諂曲模様>と鮮明な対照をなすものとして、ZYPRESSENは立ち並んでいる。ー曲線にたいする直線。水平にたいする直線。からまり合うものらにたいして、一本一本、いさぎよくそそり立つもの。…
 ZYPRESSENとは、地平をつきぬけるものである。…

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
 

宮沢賢治は、若い頃、ゴッホの描く「糸杉」に惹かれていたという。
ゴッホの「炎」のイメージの糸杉が、宮沢賢治の詩に重なりながら、世界に垂直にそそり立つ賢治の意志をそこに結晶させている。

そして、ぼくも、ゴッホの糸杉に小さい頃から惹かれ、宮沢賢治、そして見田宗介の、「世界にたいして垂直にそそり立つ」あり方に、憧れてきた。

ぼくの、意志も、身体も、生それ自体も、垂直にそそり立っているか。

ゴッホの糸杉、宮沢賢治の『春と修羅』、見田宗介の文章、そしてアフリカの道を行き来するシルエットたちが、ぼくにそう問いかけてやまない。

押しつけるのでもなく、責めるのでもなく、ただ静かに、そこに垂直に「存在」しながら。