社会学者・真木悠介の「トリオロジー」的な作品をつらぬく「主題」として、「生の歓喜」ということがある。
世界の誰もが、意識的にあるいは無意識的に、追い求めてやまないものである。
この短い文章は、この「生の歓喜」という経験についてのメモである。
ところで、人は「何が」歓喜をもたらすのか、と考える。
あるいは、「どのようなことをすることで」歓喜を得られるか、と考える。
つまり、好きなもの、好きなことを考え、見つけようとする。
しかし他方で、「生の歓喜」とは、「どのような経験」なのであろうか、と問うことができる。
真木悠介の仕事は、ここに「照準」を合わせ、あるいは「起点」として、人と社会を考察している。
社会学者の見田宗介が、ペンネームの「真木悠介」名で書いた作品群は「3+1」である。
3作品は、真木悠介の「トリオロジー」的作品である。
●『気流の鳴る音』(1977年)
●『時間の比較社会学』(1981年)
●『自我の起原』(1993年)
いずれもが、名著である。
この3作品に先立つものとして、真木悠介自身の「メモ」として書かれた作品、『現代社会の存立構造』(1977年)がある。
これで、「3+1」である。
真木悠介の「トリオロジー」的な作品をつらぬく問いは、「生の歓喜」ということである。
そして、その問いをつらぬいていく主題は「自我」の問題である。
「自我の問題」が、トリオロジーの作品群を、例えば、次のようにつらぬいていく。
1)「トナール」と「ナワール」
名著『気流の鳴る音』。
この著作で、真木悠介は、カルロス・カスタネダの仕事を「導きの糸」に、「生き方の構想」を目指す。
その中で出てくるキーワードとして、「トナール」と「ナワール」がある。
メキシコのインディオの教えに出てくる考え方だ。
著書の中で記述される点を並べてみると、下記のようになる。
(以下、真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房)
●「トナール」:社会的人間。言葉でつくられた「わたし」。間主体的(言語的・社会的)な「世界」の存立の機制(※前掲書)。
●「ナワール」:「トナール」という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性(※前掲書)。
つまり、「トナール」は、ざっくりと言えば、人間の「意識」や「マインド」である。
それは、いわゆる「自己」(自我)である。
「トナール」は、自分を守るものでありがながら、いつか、自分を「牢獄」にとじこめる看守(ガード)になってしまう。
カスタネダは、「ナワール」を解き放ち、トナールも含んだ「自己の全体性」を取り戻す教えを、インディオのドン・ファンから得ていく。
しかし、ナワールを解き放つ過程では、薬品など神経を麻痺させるような「対症療法」的な手段は選ばない。
「心のある道」を歩むことで、ナワールを解き放ち、「ほんとうの自分」を取り戻す。
そこでは、自分は「牢獄」から出て、人や自然の他者たちに開かれた「存在」となるのだ。
2)「コンサマトリー」な時の充実
「自我」という牢獄は、真木悠介の次の仕事でも、「時間」を主題に、追求されていく。
名著『時間の比較社会学』では、「終章 ニヒリズムからの解放」で、真木悠介はこのように書いている。
…われわれが、コンサマトリー(現時充足的)な時の充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだということがわかる。…
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
真木悠介は、社会における「時間」の生成を徹底した論理で語りながら、「絶対化された『自我』が溶解しているとき」という記述をたよりに、充実した時をさぐる。
そして、この「主題」は次の仕事にひきつがれ、『自我の起原』という、「世界の見方」を変えてしまう作品につながっていく。
3)「エクスタシー」論
著書『自我の起原』では、「人間的自我」が正面から取り上げられる。
科学的な生物学の議論を丹念に読み解きながら、そのオーソドックスな議論を、それ自体の論理から裂開してしまう「地点」へと誘う仕事である。
生物学的な「自我の起原」の読解から、それは「生の歓喜」の経験にかんする主題へと展開していく。
「7.誘惑の磁場」という章の中で、真木悠介は「Ecstacy」について次のように書いている。
…われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
Ecstacyは、個の「魂」が、〔あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が、〕このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店
「生の歓喜という経験」にかんする、おどろくべき明晰な文章である。
(なお、終章においては、さらに一段階先に理解を進ませる「Ecstacy」の記述がなされる。)
これらのように、真木悠介は、「トリオロジー」の仕事を通じて、そして生涯を通じて、「生の歓喜」に照準をあわせ、問い続けてきた。
『時間の比較社会学』の中で、次のような文章がある。
「月が出るとアフリカが踊る」といわれている。…
アフリカが踊っている夜を、ヨーロッパやアジアの「真空地帯」の勤勉な農民や牧畜民たちは、労働の明日にそなえて眠りながら<近代>をはぐくんでいた。
(略)
「月が出るとアフリカが踊る」あいだは、アフリカの近代化は完成しないだろう。「虹を見ると踊る」心をいつももちつづけていれば、近代社会のビジネスマンやビュロクラットはつとまらないのだ。…
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
アフリカにも、近代化は浸透している。
しかし、ぼくの経験上、それでも「自然と共同体」が強いところである。
「自然と共同体」が、近代化の大波と、いたるところで拮抗している。
「月が出ていても踊らない」ことで切り拓かれてきた「明るい世界」。
「月が出ると踊る」ことが素敵でもある「交響する世界」。
これら二つの世界が交わっていくところに、未来を構想することができる。
今日2017年6月9日は満月。
まさしく、月が出るとき。
月の光が、ここ香港の海面で、きらきらと煌めくだろう。
そのひと時を、束の間でも楽しみたい、とぼくは思う。
月の光のもとで、いくぶんか、「自我」が溶解する経験に向かって。